わたしのDDR〜 東ドイツの女性たちに光を当てる。ウタさん
これまで「わたしのDDR」で
ファッションモデルのレナーテさん、物資のないなか工夫してケーキ作りをしていた、コルネリアさん、芸術家のドリスさん、お料理を教えてくださった元看護婦のハイジさんにお話を聞きました。
第5回目は、ウタ・ミッシング=フィアテルさんです。
1948年、ライプチヒ生まれ。 DFF 東ドイツ国営のテレビ局に勤めていた方です。 「わたしのDDR」シリーズでは、旧東ドイツ出身の女性たちに話を聞いています。その話を聞いた東ベルリン出身の友人から「東ドイツの女性たちについて本を書いている人を知ってるよ!」とご紹介いただいたのが、ウタさん。 前回お会いした時、話が面白すぎてお詳しすぎるので、ベルリン壁崩壊の年から1990年代に時期を絞ってお話を聞くことにしました。東ドイツの女性は、西ドイツ男性に大人気?
コーヒーを飲みつつ、著書の「けしからん東ドイツの女性たち」と、東と西の女性の違いについて話をしていたら、 「地方では、西ドイツ出身の男性が東ドイツ出身の女性と結婚(再婚)する割合が非常に高い」 えっ!? あ、そういえば私が知ってる東西カップルも全部そのパターンです……! 「その理由の一つにね、東ドイツの女性と西ドイツの女性では、性生活が違うのよ」とか、えー?ウタさん、その話もっと聞きたいんですけど!…………とりあえず、それはまたの機会に。
西ドイツに吸収される東西統一ではなく、違う東ドイツが欲しかった。
ウタさんは、ライプチヒに生まれ、DFF 東ドイツ国営のテレビ局で ニュース番組「aktuelle Kamera」などで1年間研修を積んだあと、大学で政治学を学びました。ファッション誌やインテリア、家庭雑誌などを出していた出版社「Verlag für die Frau」で働いた後、ベルリンで、DFF 東ドイツ国営のテレビ局に就職。 現在まで48年の歴史を持つ東ドイツ発の長寿番組「Polizeiruf 110」などのシリーズものを担当していたそうです。
1989年、ベルリンの壁が崩壊した年、東ドイツでは民主化運動が大きくなり、ベルリンでも有名な芸術家たちが先頭に立ってデモが行われました。 ドリスさんのお話にも出てきた、50万人以上が集まったデモを始め、数々のデモに、ウタさんも足を運んでいたと言います。 しかし、彼女は懐疑的でした。
「1989年、11月の始め、ゆっくりとわかってきたんです。 ああ東ドイツの人たちの「自由」は、バナナだのマヨルカへのヴァカンスなのかと。でも東ドイツの知識人の多くは、そんな自由が欲しかったわけじゃないんです。西ドイツと一緒になるのではなく、違う形の東ドイツが欲しかったのだと思います。
もちろん、私たち、話を聞いた女性たちも含め、誰一人、DDRに戻りたいとは思っていません。でも、これまで何十年と築いてきたものが、こんな簡単に無かったことにされてしまうなんて、思ってもみなかったのです。」
DDR、はDer Doofe Rest (バカな残り物)
「ベルリンの壁が崩壊した時、私は仕事を終え家にいました。そしたら、西側に亡命した俳優から連絡があったんです。国境が開いたぞって。 国境が開いたのはいい。でも、それを手放しで喜んではいられませんでした。なぜなら、この動きがどういう終結を迎えるかがわからなかったからです。もちろん、西ドイツが東ドイツに対して圧倒的に強い。でもまさか、ここまで情け容赦なく東ドイツのテレビ局が潰し、首切りが行われるとは思っていませんでした。東独のテレビ局職員や俳優たちには、ほとんど生き残るチャンスはありませんでした。」
「DDRって知ってますか?」
もちろん知ってますよ!と私が答えると、、
「Der Doofe Rest (バカな残り物)の略語なんだって言われました。私たちは、国境を越えず、東ドイツに残ったバカなやつら、だってね。この時期、同僚と毎日のように「東ドイツは、何を間違えたのだろう?」と話し合いました。東ドイツは、労働者の独裁国家と言われていました。でも壁が壊れて、「独裁国家」の方ばかりにスポットが当てられた。
私ももちろん首になり、その後、居酒屋を開いてみたり、紆余曲折ありましたが、最終的に連邦省に職を得ました。」
システムに柔軟に対応していく東の女性たち
多くの女性たちは、東ドイツでキャリアがあっても、西側ではそれが認められず、初歩からやり直しを余儀なくされました。しかしDDR出身の女性は、仕事先では歓迎されていたと、ウタさんは言います。
1990年から2008年まで、東から西に働きに出る東独出身者は、男性より女性が多いというデータがあるのだとか。 「東ドイツの女性は、Systemkompatible システムに互換性がある、って言われたことがあります。 自立しているし、向上心があると。 西側の女性と比べて、家族よりも仕事に自分を見出している人が多いからですかね。 あとは、西ドイツの男性に東ドイツの女性が好かれる理由は、ショッピングに興味が薄いからね。東ドイツ時代にあまりお買い物できなかったから(笑)」
パワーショベルで踏み込んできた、西の人たち
1990年の東と西ドイツの再統一を、勝者である西ドイツに東側が蹂躙されたと、ウタさんは見ているようでした。
「東が望んで西側に入れて欲しいとやって来たんだから、西のシステムにならい、西側のいうことを聞くのが当たり前。東と西を比較して、良い方を選ぼうなんてことは一切なかったのです」。
「ひどかったのは、地上げです。第二次世界大戦の前に、東側の土地を所有していたという西側の人たちが、統一後、一気に東側にやってきて、権利を主張しました。 私たちのところにも「4週間後に家を明け渡せ」と手紙が来ました。13年間も裁判をやったんですよ!私たちは裁判に勝ちましたが、追い出された人も多かった。いまでも覚えていますが、パワーショベルで突っ込んできて、庭にあった小屋を潰された人もいました。私もできるかぎりの事をしましたが、情報も少ないし、役所も混乱していましたしね。 政治家なんて、何もしてくれませんでした。
私は右派ポピュリスト政党AfDは、決して支持しません。でも、Alternativ、「既存の政党とは違う、代わりになる政党だ」ーとして出て来た彼らが、東ドイツの男性たちから圧倒的に支持を集めている、その理由はわからないでもないんですよ」
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まだ30年、もう30年。 東西ドイツ再統一から、29年を経ても、まだ東と西ははっきりと分かれています。
でもそれは当たり前じゃないかとウタさんは言います。
「東ドイツは建国から40年。再統一から30年近く。たった40年。たった30年。理想があっても実現できる時間ではありません。一番若い孫が17歳なんです。この子の世代くらいでやっと、東と西、はなくなってくるんじゃないかしら。でも、わたしは、いつでも東の女だから!それは変わらないわ!」
ウタさんと、元同僚のエレンさんの共著
「けしからん東ドイツの女性たち Unerhörte Ostfrauen」現在2版目が売り切れ、現在3版目の重版が決定しているそうです!
文字が多くて読むのはなかなか大変ですが、非常に興味深いレポート。ご興味ある方ぜひ!
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