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わたしのDDR 〜東ドイツで芸術家に自由はあったのか?演劇彫刻家ドリスさん。

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わたしのDDR 〜東ドイツで芸術家に自由はあったのか?演劇彫刻家ドリスさん。

2018年もあと1ヶ月を切りました!来年、2019年はベルリンの壁崩壊から30年。しかし、しかし壁の崩壊から東西ドイツ再統一を経て”なくなってしまった国“東ドイツは、どんな国だったのでしょうか?ここに生まれ育ち、激動の90年代に翻弄された東ドイツの人たちに、当時の話を聞く企画「わたしのDDR(東ドイツ)」!
ファッションモデルのレナーテさん、物資のないなか工夫してケーキ作りをしていた、コルネリアさんに続き、

第3回目は、ドリス・アイザーマンさんです。


1956年、東ベルリン生まれ。
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一見きつそうにも思える細く意思的な顔に、黒で統一したシックなファッション。しかし口を開けばベルリン訛りのざっかけない早口が飛び出します。
彼女は、東ドイツ時代、「テアタープラスチック(演劇彫刻)」という、西ドイツでは耳慣れない職業についていました。オペラや演劇などの舞台のために彫刻や人形などを作るという仕事。西側諸国でも展覧会が開催されるほど有名な「テアタープラスチック」のアーティストがいたため、東独でこの職業が有名になったそうです。彼女は、そのアーティストに弟子入りし、ベルリナー・アンサンブルやコミッシェ・オーパーなどの大箱から小劇場、テレビまで、数々の舞台で働いてきました。

全国各地に国立の劇場があり、誰もが安価に観劇ができた。

東ドイツでは小さな街にも必ずといっていいほど劇場があり、もちろん全てが国営。1989年には全国に213館がありました。国民の誰もが劇場に足を運べるようにとチケット代も安価に抑えられていたので、西側から東側の劇場に通う人も少なくなかったとか。東西ドイツの再統一をうけ、国という運営母体をなくした小さな劇場が次々と潰れていってしまったのはとても残念だと、ドリスさんは言います。

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1986年に独立し、劇場で働きながらも芸術活動に勤しんだ彼女。
東ドイツの中で芸術家に自由はあったのでしょうか?という私の問いに、ドリスさんはこう答えました。
「アーティストして仕事をするためには、VBK(東ドイツ造形芸術家団体)という職業団体に属する必要がありました。常に規制されていると感じてはいなかったけれど、演劇は公演に必ず秘密警察、シュタージの監視がついて内容をチェックし、反政府的とされたアーティストは職業の禁止を言い渡されることもありました。
例えば、私が長らく一緒に仕事をしていた俳優、クレメント・デ・ロブルースキーです。
1970年代、テレビで冠番組を持つほど人気の劇団を率いていた彼は、80年代から政情を皮肉った演目をやるようになって、ある時、政府から公演を禁止されてしまったんです。その後、彼は家族も置いて突然西ベルリン側に亡命してしまいました。もちろん東ドイツには入国禁止です。私も西側への憧れがなかったわけではありませんが、この国で定職について好きなことをやっていましたし、お金はあまりなかったけれど生活も優遇されていたし、子どもも二人もいましたしね……」 

彼女の父は、ユダヤ人で第二次世界大戦中、反ナチス抵抗運動に関わっていました。東独政府は、ナチスと戦った人たちとその家族に「ナチス政府に迫害された人々」という認定を与え、住居探しなど様々な点で優遇していたのだそうです。
実は、彼女の兄はシュタージで働いていました。当時フランス人と付き合っていた彼女にもシュタージのIM(非公式協力者)として情報提供をしないかという働きかけがあったと言います。
「もうびっくりしちゃってね。そこら中に、シュタージから誘いがあったって言いふらしちゃったわよ(笑)こんな口の軽いやつは無理だと思われたみたいで、その後お誘いはなかったの」

ベルリンの壁崩壊につながる、芸術家たちのデモ


1989年11月4日。
ベルリンの壁が壊れる5日前、劇場関係者が発起人となった反政府、反独裁体制のデモがアレクサンダープラッツ前で行われ、50万人以上が集まりました。反政府デモとしては東独史上最大級。もう国民の不満は抑えられないところにまで来ていました。ドリスさんも垂れ幕を持って先陣を切ったそうで、当時のニュース写真には彼女の姿が写っています。

そして、11月9日の夜。
友達とカフェにいた彼女は、東西ベルリンの国境が開く、というニュースを耳にします。
「一番近くの国境にみんなで行こう!と歩き始めたんです。身分証明書も携帯してなかったし、子ども2人に留守番させていましたが、半信半疑だったので。オーバーバウムブリュッケ橋の国境の前は大混雑でしたが、国境は開いていた!本当に西側に行けたんです!
そのまま、西ベルリンに亡命した俳優のクレメント(前述)の元に飛んで行きました。彼は国境に近いクロイツベルクで芸術家向けのバー「あの世」を開いていたんです。たまたま東側からクレメントの息子が遊びにきていて『僕は西側への旅行許可をもらうのに5年もかかったのに!』って怒ってたのをよく覚えています(笑)。3人で西側の目抜き通りクーダムに車を走らせて。真夜中なのに人でいっぱいの道を徐行運転していたら、ようこそ、ようこそ!ってみんなが声をかけてくれた」
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東側へと帰る際、身分証明書がないから戻れないかも……と心配する彼女に、俺にまかせろと胸を叩き、クレメントは国境警備隊の前でいきなり演説を始めたそうです。
「『この人はまだ小さな子どもをたった一人で家に寝かしたままにしてきてしまった、もうすぐ夜が明ける、子どもが目を覚ます、いますぐ東ドイツに帰らなければならない』って、雄弁を振るってね。長々話す彼の後ろでは行列がどんどん伸びていくし、国境警備員ももういいよと、身分証明書をチェックしないで2人とも通してくれたの。クレメントには西側への亡命後、東独入国禁止令が出てたから、彼の方こそこの騒ぎに便乗して東ドイツ側に帰りたかったのね。すぐ病気のお母さんに会いに行っていたわ」。

少しだけ期待を裏切られ、翻弄された90年代。

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しかしこの日、西ベルリン側で彼女が感じた歓迎ムードは長くは続かなかったといいます。
当時東側には電話が少なく、西側の公衆電話ボックスの前で東ドイツの人たちが行列を作っていたら、「このクソ東ドイツ人」と怒鳴られたことも。西ベルリン側の劇場の現状を知りたいと見学を申し込んでも、すげなく断られたり。
「たまたま、タイミングが悪かっただけかもしれません。でも、あまりいい気はしなかったですね。職場だった劇団は12人いた職員を2人に減らしてしまったし、子どもたちの学校もシステムが急に変わって、情報が錯綜して混乱していました」
劇場の定職を失った彼女は、技術を生かして建築模型を作リ始めましたがコンピューターの台頭で仕事が減り、95年にインテリアショップをオープン。旧東ベルリン、ミッテ地区に華々しくオープンした高級デパートの一角に店を構え、そこでインテリアのコンサルタントも勤めました。そのデパートも昨年閉店。彼女はいま、ショップのインテリアコーディネートなどをしながら、昔から興味があったという影絵の人形をつくり、展覧会も開催しています。

シュタージと芸術家たち

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ドリスさんと最初にお会いした後、彼女の友人、クレメントに興味がわいて検索をしてみたところ、彼が1983年にシュタージの情報提供者として、西ドイツ側からきたロック歌手、ウド・リンデンベルクのコンサートに潜入していたというニュースが出てきました。
2度目にドリスさんにお会いしたとき、さりげなくその話題をふってみました。
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「そのことについて、彼と話したことはありません。でも、当時彼は東ドイツでの公演禁止が言い渡されていた。芸術家にとって表現を禁止されると言うことは、死刑宣告と同じです。その不安をシュタージに利用されたんでしょう。でも、そもそもたいした話じゃないわ」

え、シュタージの過去はたいしたことじゃないんですか?と思わず聞き返す私。
西側の人たちが想像するように、東ドイツの人はシュタージに怯えていつも従っていたわけじゃないからと、ドリスさん。
「弱みを握られてシュタージの仕事を引き受けざるをえなくなって、でも他の人に迷惑がかからないよう適当な嘘でごまかしていた人もたくさんいました。もちろん他人を刑務所に追いやるような密告をしたり、自分が優位に立つためにあることないこと告げ口した人は悪いと思う。兄に関してはシュタージに就職したことも理解できないし、東西ドイツ統一後、彼が私の友人も密告していたことがわかって、絶縁状態だけれどね」。
“シュタージ”に関わっていたといっても、その仕事内容や背景は様々。

「東西ドイツ統一後、様々な東ドイツの有名人がシュタージだったと騒がれて地位を追われました。"シュタージ"というレッテルが、東の人たちを活躍の場から追いやる理由として利用されていたようにも思うわ」

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「DDR時代に戻って欲しいとは、思いません。子どもたちは2人とも、留学もして世界を見て、人生を謳歌している。でも、いまのベルリンの状況を見ていると、あまり変わらないかなと思うんです。DDR時代は東独が一番!と考えさせられていたけれど、いまはなんでもお金が一番の拝金主義。東ドイツの旗が、「カネ」に変わっただけじゃないかって」

表現の自由はあっても、生活の保証はないので、芸術家が制作を続けながら暮らしていけるかどうかという不安やプレッシャーは、いまの方が大きいのではないかとドリスさんは言います。彼女の昔のアトリエは東ドイツ時代は100平米で130東ドイツマルクだったのに、壁が倒れたら一気に600マルク、その後2500ユーロと驚く値上がり。
東ドイツ時代の貯金が西独マルクへの換金時に目減りしてしまって、人生設計が狂った人もいるとか。(1990年、東西ドイツ再統一に先駆けて、年齢に応じて1人2000から6000東独マルクまでは同額の西独マルクに換金してもらえましたが、それ以上の額は2分の1、4分の1のレート。換金時期を逃すと10分の1ということもあったよう)
「女性の権利、男女平等に関しても、東ドイツの方が格段に進んでいた。保育園も充実していて、働く女性には悪くない環境だったんですよ」

河内 秀子

東京都出身。2000年からベルリン在住。ベルリン美術大学在学中からライターとして活動。雑誌『Pen』『derdiedas 』などでもベルリンやドイツの情報を発信させて頂いています。
趣味は漫画と東ドイツとフォークの刺さったケーキの収集、食べ歩き。蚤の市やマンホール、コンクリ建築も大好物。
Twitterで『一日一独』ドイツの風景を1日1枚、アップしています。@berlinbau

河内 秀子