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ベルリンの壁 崩壊まで(4)

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ベルリンの壁 崩壊まで(4)

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1989年11月3日

(© picture alliance / Reinhard Kemm)

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東ドイツでは3度目の国民の大量出国が起こりました。東ドイツ政府の決定に基づき、国民はチェコスロヴァキア社会主義共和国(当時)との国境を越え、そこから何も手続きを踏むことなく西ドイツに入国することが可能となりました。そうして今度はチェコスロヴァキア国境経由での国民の大量出国が起こったのです。

その間、SEDのエゴン・クレンツ書記長は、テレビやラジオの演説で党改革への意思を強調するとともに、国民には、国に留まり共に問題を解決し国の未来に向けて力を尽くすようにと呼びかけました。

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1989年11月4日

(© picture-alliance/ ZB)

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東ドイツ史上最大の大規模デモが起こり、約60万人もの市民が警察の許可を受けた大規模デモに参加するために平和裡に東ベルリンに集合しました。警察は介入せずに控えていました。参加者たちは政治改革の即時実施を要求しましたが、この時点では誰もドイツが統一されるなどとは予想だにしていませんでした。参加者たちが要求したのは報道・表現・集会の自由で、アレクサンダー広場で開催されたデモの閉会行事は予告なしにテレビ中継されました。

東ドイツの他の町でも同じように政権与党であるドイツ社会主義統一党(SED)に反対する大規模デモが同時に開催されていました。

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1989年11月8日

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絶え間ない大規模デモと党員らの不満に押され、SEDの政治局員は総辞職しました。

1989年9月11日にハンガリーの西側の国境が開放されてから、何度も国民の大量出国が繰り返し起こりました。国民からの圧力があまりにも大きかったために、SED指導部は1961年8月13日にベルリンの壁を構築してから阻止し続けてきた国民投票を、今回は阻止できませんでした。

東ドイツに留まることを望み、政治の変化と改革を要求する市民たちは大規模な抗議デモを頻繁に起こし、SED最高指導部に絶え間なく、日増しに大きな圧力をかけ続けました。SEDの政治局はもはやほとんど政治的対処ができず、当初は守勢に回り、その後退却と退任へと追い込まれていきました。

SEDのロゴ (© picture-alliance / dpa)

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1989年11月9日

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ベルリンの壁崩壊

SEDのシャボウスキー政治局員は、特段の注目点もなく始まった記者会見で、プレス発表の案文を読み上げました。それは「国外への個人旅行は、条件(渡航目的および親戚関係)を提示しなくても申請でき、許可は短期間で出される。東ドイツから西ドイツおよび西ベルリンへの出国に対する査証は、どの国境検問所を経由するものであっても迅速に発行される」という決定に関するものでした。記者からの質問を受けたシャボウスキーは、自分の答えがどのような結果を招くかに思いもよらぬまま、「この決定は遅滞なく効力を有する」と答えました。

この記者会見がテレビで生中継された直後から、連鎖的な反応が起きました。「国境が開放された」とは一言も言われていないにもかかわらず、そうした噂が瞬く間に広まったのです。まもなく、ベルリンの壁の国境検問所に多くの東ベルリン市民が詰め掛けました。西ドイツ・ボンの連邦議会では、この知らせを受けた議員たちが審議を中断し、国歌を歌い始めました。情報を把握していなかった東ドイツの国境警備隊には、どう対処すべきかわからず、事態収拾の術はありませんでした。最初は指示通りに、パスポートを持った東ドイツ人だけを通し、再入国できないようにパスポートを無効とする手続きを行いました。しかし国境検問所に殺到する人の波が膨らみ続けたため、こうした手続きを中断せざるを得ず、ついには検査自体もやめてしまいました。23時14分、まずはボルンホルム通りの検問所で遮断棒が上げられました。28年を経て、ついにベルリンの壁が事実上崩壊したのです。西ベルリン側に着いた東ドイツの市民は、歓喜する人々の熱烈な歓迎を受けました。

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翌日、さらに数十万人の人々が国境に押し寄せ、東ドイツから出国しました。国境通過がより迅速に進むよう、壁の一部解体が始まりました。人々は歌を歌い、歓声を上げ、踊り、抱き合いました。ヴァルター・モンパー西ベルリン市長は、前夜の雰囲気を「昨晩、ドイツ人は世界で一番幸せな国民だった」と表現しました。

国境が開放された直後の週末、300万人もの東ドイツの人々が西ドイツと西ベルリンを訪問しました。そのまま西側に移り住んだ人も大勢いました。移動する人の数があまりに多かったため、東西双方向の道路で大渋滞が発生しました。西ベルリンや国境周辺地域の交通網は、完全にマヒ状態に陥りました。

東ドイツ人には1人当たり100マルクの歓迎金が贈られましたが、その支給手続きにも遅れが生じました。

 

1990年10月3日

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ドイツ各地で「ドイツ統一の日」を祝う式典が催されました。この日、ドイツの憲法である基本法第23条に基づき、「ドイツ民主共和国のドイツ連邦共和国への加入」が発効したのです。これによって東ドイツという国は消滅し、45年に及ぶ分断を経てドイツの国家統一が果たされました。

ベルリンの帝国議会議事堂前やブランデンブルク門周辺では、何十万人もの人々が集まって統一を祝いました。国旗掲揚、ベルリン市庁舎の「自由の鐘」、国歌斉唱、花火が式典を盛り上げました。

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ベルリンの壁 崩壊まで(1)
ベルリンの壁 崩壊まで(2)
ベルリンの壁 崩壊まで(3)

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ドイツ大使館 広報部の職員による投稿です。

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