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ベルリンの壁 崩壊まで(1)

ハンガリーの西ドイツ大使館に押し寄せる東ドイツ市民
(© picture-alliance/ dpa)

ハンガリーの西ドイツ大使館に押し寄せる東ドイツ市民 (© picture-alliance/ dpa)

ベルリンの壁 崩壊まで(1)

1989年8月5日

© picture-alliance/ dpa

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ドイツ民主共和国(東ドイツ)が初めて国外脱出者に対する公式声明を発表し、この問題の存在を認めました。

1989年の前半にはすでに東ドイツ市民の不満が高まっていました。彼らは未来への希望が持てず、国の指導部をも信頼していませんでした。そうして10万人以上の市民がドイツ連邦共和国(西ドイツ)への出国申請をしたり、プラハ、ブダペスト、ワルシャワにある西ドイツ大使館や、東ベルリンの西ドイツ常駐代表部に保護を求めました。

1976年から1985年の間に脱出した市民の数は千人を下回る程度でしたが、1986年からその数が増え始めました。1988年の国家公安省の記録では、脱出を試みた人は6,571人にのぼり、その内3,565人が成功しました。1988年には10,676人が脱出を試み、1989年の10月までには既に53,576人が出国に成功しました。

ベルリンの壁建設当時から1980年代末までは、西ドイツに脱出する人が大半でしたが、ワルシャワ条約機構体制の変化の始まりとともに、ハンガリーやチェコスロバキア経由での出国が増大しました。

1989年8月13日

ハンガリーの西ドイツ大使館に押し寄せる東ドイツ市民 (© picture-alliance/ dpa)

ハンガリーの西ドイツ大使館に押し寄せる東ドイツ市民
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この日、ハンガリーのブダペストにある西ドイツ大使館は、出国を希望する約180名もの東ドイツ市民が押し寄せたために閉鎖せざるを得ませんでした。ハンガリーは、東ドイツから脱出する市民のために仮収容施設の建設をすでに開始していましたが、東西ドイツ両国に対しこの問題を両国間で解決するように要請しました。

それより数日前の1989年8月8日には、東ベルリンにある西ドイツ常駐代表部に出国を望む130名の東ドイツ市民が押し寄せ、彼らを収容したために窓口業務が一時的に停止されました。

ハンガリーは1989年の春に既に国境警備システムの撤去を開始しており、さらに1988年には自国民の出国を許可していました。その結果、ハンガリーを経由して西側に脱出しようとする東ドイツ市民が急増しました。

閉鎖された在東ベルリン西ドイツ常駐代表部 (© picture-alliance / dpa)

閉鎖された在東ベルリン西ドイツ常駐代表部
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1989年8月19日

ハンガリー・オーストリア国境に押し寄せた東ドイツ市民 (© picture-alliance/ dpa)

ハンガリー・オーストリア国境に押し寄せた東ドイツ市民
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ベルリンの壁建設以来、最大の東ドイツ市民の国外脱出が起こった日。何百人もの東ドイツ市民がハンガリーのショプロンで開催された「汎ヨーロッパ・ピクニック」を利用しハンガリー・オーストリア国境を越えて脱出しました。ウィーンの西ドイツ大使館が彼らの世話をしてバイエルンに移動させました。

「汎ヨーロッパ・ピクニック」が目指したのは、国境ゲートのひとつを象徴的に開放し、これまで一度も行われなかった越境を実現することでした。これが国境の撤廃へつながることとなり、欧州全体の統合へと向かう第一歩となりました。わずか数時間のうちに、600人を越える東ドイツ市民が国境のゲートに殺到し、この機会をとらえてオーストリアへ脱出しました。

このピクニックを主催したのはハンガリーの政党「ハンガリー民主フォーラム」と欧州統合運動の組織である「汎ヨーロッパ連合」でした。ハンガリー政府にとっては、汎ヨーロッパ・ピクニックが国境開放に対する他の東側諸国の反応を探る良い機会となりました。ハンガリーは、自国民に出国の自由を与えて以来、今後も他の東側諸国のために国境監視の役を担っていく意欲を既に失っていたからです。

「ハンガリーは東ドイツ市民の自由への希求を加速した」とメルケル首相は2009年にショプロンを訪問した際に語り、ハンガリー国民に感謝の意を表しました。

(© picture-alliance/ dpa)

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1989年8月22日

プラハの西ドイツ大使館に押し寄せる人 (© picture-alliance / dpa)

プラハの西ドイツ大使館
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東ドイツ市民が出国を試みたのは、ハンガリー経由にとどまらず、チェコスロバキアも重要な経由先となりました。プラハの西ドイツ大使館は、大勢の東ドイツ市民が押し寄せたために閉鎖しなければなりませんでした。それでもなお、出国を求める多くの東ドイツ市民が西ドイツ大使館の建物であるロブコヴィッツ城の庭の柵を乗り越えて押し寄せてきました。

大使館の建物の紹介はZDF360度パノラマビデオ(1989年ドイツ語)のサイトをご参照ください。

プラハの西ドイツ大使館を占拠する東ドイツ市民 (© picture-alliance / ZB)

プラハの西ドイツ大使館を占拠する東ドイツ市民
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1989年9月4日

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ライプツィヒのニコライ教会では毎週月曜日に行われる「平和の祈り」の後、初めてデモが行われました。約1,000人もの市民が教会前に集結し、初めて自由の拡大を求めました。その時以来、毎週、月曜デモが開催されることとなり、幾度も警察の監視や妨害を受け、時には強制的に解散させられました。それでもこの大規模なデモはさらに拡大していきました。

ライプツィヒは1980年代初頭に早くも東ドイツの平和運動の中心となりました。1982年から平和の祈りが行われ、1985年にはクリストフ・ヴォネベルガー牧師が着任し、ニコライ教会での平和の祈りを開催しました。1989年5月には、地方選挙の不正をうけて、平和の祈りの後、これまで以上に大規模な集会が開催され、警察に包囲されました。9月4日のデモの際には警察が行動を控えましたが、これは外国メディアが現地入りしていたことも一因でした。

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ドイツ大使館 広報部の職員による投稿です。

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