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ベルリンの壁 崩壊まで(3)

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ベルリンの壁 崩壊まで(3)

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1989年10月4日

(© picture-alliance/ dpa)

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プラハやワルシャワから出国者を乗せた列車の第二陣が、ドレスデンを経由して西ドイツに向かいました。駅やホームは出国を決意した東ドイツの人々であふれかえり、特別列車の運行に遅れが生じました。列車には外から人が入れないよう鍵がかけられていました。

列車が東西ドイツ国境を通過する前に、乗客はパスポートを取り上げられ、国籍を剥奪されました。これは、祖国を去るという決断は決して後戻りできないことなのだ、とその重さと自らの力を思い知らせようとした、東ドイツ政権の最後の試みだったのです。ただし、西側への出国を希望する人全員が列車に乗れたわけではなく、何百人もの人々が通り過ぎる列車に無理やり乗り込もうとしました。事態がエスカレートし、乗り込もうとする人々と警察との小競り合いになったところもありました。一方で、大勢の人々が線路脇に立ち、列車で通り過ぎる同胞たちを歓声を上げて見送りました。

(© picture-alliance/ dpa)

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1989年10月7日

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ドイツ社会主義統一党(SED)政権は、東ドイツ建国40周年の記念式典を開催しました。国家、特に自らの政党を自画自賛する華々しい催しとなるはずでした。ですが振り返ってみるとこの日は、SEDが自らの権力を大々的に誇示する最後の機会となりました。

記念式典では、東ドイツの国旗がはためくなか、軍事パレードやSED青年組織の行進が行われました。行事を確実に成功させるため、大規模な警察部隊が投入されました。式典に招かれたゴルバチョフ ソ連共産党書記長は演説を行い、改革の必要性を唱えました。この呼びかけを聞いた多くの東ドイツ人は、民主的な変革が本当に訪れることに期待を寄せました。

この式典がきっかけで、SED政権に対する抗議行動が各地で自然発生的に起こりましたが、またしても強硬手段がとられ、多くのデモ参加者が拘束されました。

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1989年10月9日

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この日も、東ドイツ各地でSED政権に反対するデモが行われました。ライプツィヒも騒然とした雰囲気に包まれました。月曜恒例の「平和の祈り」に引き続き、大規模な抗議デモが行われ、参加した75000人もの市民が政治改革を求めました。同時に、暴力に訴えないようにという呼びかけが行われました。

6人の著名なライプツィヒ関係者による声明が読みげられました。これは、デモ参加者および警察・軍隊の双方に対し、暴力に訴えず、SED政権側も含め互いに自由な意見交換をすすめることで、国が抱える問題を解決するよう促すものでした。ラ イプツィヒには、警察、軍、動員された労働者階級戦闘団が集結していましたが、介入することなく引き上げました。SED上層部が実力行使を躊躇したためです。

こうして、内戦状態に陥る危険はひとまず回避されました。2日後、SED指導部は、大量国外脱出と大規模デモの圧力に押された形で「魅力ある社会主義のための提案」を行うと発表しました。

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1989年10月17日

(© picture-alliance / Sven Simon)

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東ドイツの最高権力者であったエーリヒ・ホーネッカーが権力の座を追われました。建国40周年式典からわずか数日後、SED政治局は、ホーネッカー解任を会議の議題としたのです。

これはホーネッカー自身にとっては予想外の出来事でしたが、SED上層部ではすでに以前から進められていた計画でした。しかし、この計画が絶対にうまくいくと断言できる人はいませんでした。事前にソ連の同意を取り付けてはいましたが、計画は対抗措置を恐れて極秘裏にすすめられたため、改革を目指してホーネッカー解任を支持する人がはたしてどれだけいるかわからなかったからです。

党内で孤立したホーネッカーもこれに同意せざるを得ず、翌日、18年にわたった権力の座を、公には「健康上の理由」で明け渡し、すべての役職を失いました。後任には、後継者とみなされていたエゴン・クレンツが選出されました。こうしてホーネッカー時代は終わりました。

エーリヒ・ホーネッカー (© picture-alliance / dpa)

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1989年10月30日

(© picture-alliance / Zentralbild)

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SED政権に抗議する人々による数十万人規模のデモが再び行われました。

デモでは、新たな改革の要求が掲げられました。特にライプツィヒでは、月曜礼拝に続き多くの人々が街中を練り歩く抗議デモに参加しました。自由選挙を求める声も上がりました。

またドレスデンを皮切りに各地で討論会が開かれるようになり、政治家は市民の批判的な質問に向き合いました。

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ドイツ大使館 広報部の職員による投稿です。

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