ベルリンの壁 崩壊まで(2)
東ベルリン近郊では、平和運動の活動家が「出発89-新フォーラム」を発足させ、その設立宣言文に署名しました。これはプロテスタント教会以外で初めて全国的に活動を展開する反体制運動で、東ドイツに政治的なプラットフォームを築き、改革のための民主的対話を推進することを目標に掲げ、同フォーラムに全国の反体制運動が結集するよう求めました。
しかし「新フォーラム」は当初、国家公安省から「反国家的」とみなされ登録が却下されたため、ようやく合法化されたのは1989年11月8日になってからでした。
1989年9月11日
ハンガリーは0時0分に内務大臣の命令によって全ての東ドイツ市民のために西側の国境を開放しました。この好機をとらえ、数週間にわたって何万人もの東ドイツ市民がハンガリーへ向かい、オーストリアとの国境を越えて西ドイツへと出国しました。
この国境開放によって、ハンガリーは東ドイツとの間で結ばれていた二国間協定の規定を破ったのでした。1969年に発効したこの協定は、有効な書類を所持しない限り、相手国の国民が西側に出国することを禁止していたのです。
東ドイツ政府は、急遽ハンガリーへの出国を禁止しましたが、徒労に終わりました。
1989年10月1日
チェコスロバキアやポーランドに国外脱出した数千人の東ドイツ人が、特別列車で西ドイツへ移動しました。特別列車は、プラハやワルシャワから東ドイツを経由して西ドイツに向かいました。東ドイツ政府は、列車がドレスデンやカール=マルクス=シュタットなど国内を経由するよう要求しました。こうすることで、自国の主権を強調しようとしたのかもしれません。乗客には、チェコスロバキアやポーランドの西ドイツ大使館の敷地内に何週間も滞在した人たちや、多くの子供たちもいました。列車は満員で、出国を望み何とか乗り込もうと試みる人もいました。列車が西ドイツに到着すると、各地で熱狂的な歓迎を受けました。
1989年10月2日
ライプツィヒのニコライ教会では、「平和の祈り」に引き続いての「月曜デモ」がこれまでで最大規模となりました。
ライプツィヒでは、1982年9月から毎週月曜日に平和の祈り礼拝が行われてきました。平和の祈りは参加者の交流の場として定着し、次第に政治的な性格が強まり、参加者も増えていきました。平和の祈りに引き続いて開催されるようになった月曜デモでは、当初は出国の自由を求める声が中心でしたが、次第に政治改革や言論の自由を求める声が高まっていきました。「自由、平等、博愛」「私たちは国内に留まる」「ゴルビー、ゴルビー」といったシュプレヒコールが唱えられました。ゴルビーとは当時のソ連共産党書記長だったミハイル・ゴルバチョフのことです。東ドイツの人々は、ゴルバチョフの演説を通じて政治改革への期待を抱くようになっていたので、ゴルバチョフは自国の政治家よりはるかに人気があったのです。
警察は当初、デモ参加者に対する行動を控えていましたが、その後、デモ参加者と警察隊との衝突も発生しました。警察が実力行使でデモを鎮圧しようとするなか、負傷者や多数の拘束者が出ました。
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