ベルリンへの道:ベルナウアー・シュトラーセ
ベルリンの街を歩いていると、歴史が刻まれた場所に次々と出会います。
ベルリンへの道、第一弾の「ゾフィーエン・シュトラーセ」、第二弾の「オーダーベルガー・シュトラーセ」に続く第三弾は、
「ベルナウアー・シュトラーセ」Bernauer Strasse
通りの名前は知らなくても、行ったことがある人は多いのではないでしょうか。
東西に1,4kmに渡って伸びる道は、戦後は西と東ベルリンの国境に。そして1961年から国境に沿って作られたベルリンの壁が、当時のままに保存されている記念館がある場所です。
記念館横のプラットフォームの上から通りを見下ろすと、「ベルリンの壁」が、1枚ではなかったことなど、構造がよくわかります。(ベルリンの壁については、「11月9日 ベルリンの壁崩壊の日に」の記事で詳しく解説しています。)
通りの最寄り駅「ベルナウアー・シュトラーセ」を出ると、足元に国境。
ベルリン・ミッテ地区(旧東ベルリン)
ベルリン・ヴェディング地区(旧西ベルリン)
西と東が足の下に。
私はベルリンに来てから何度か引っ越しましたが、縁あってこの近くが多く、ほぼ毎日、東から西へ、西から東へとこの道を通って「ベルリンの壁」を超えていました。その度に、歴史を思い起こさずにはいられない。いつも、自分がここにいることが、なんだか不思議な気分になります。
いまは本当に簡単に、ポンとまたげてしまうこの線が、そしていま見ても、簡単によじ登れそうなこの壁が、1961年の8月13日から1989年の11月9日まで、東ドイツの人にとっては、物理的にも、心理的にも高い「壁」として立ちはだかっていました。
東ベルリンの人たちにとっては、見るのも嫌な、分断の象徴。そのため全長155kmの「ベルリンの壁」は、ベルリンの壁崩壊後早々に撤去が進み、現在公式に残されているところは、こことイーストサイド・ギャラリーを含めて10箇所もありません。
壁があった場所には、通りに下写真のような印が残されています。
ベルナウアー通りに立って西側を見ると、1970年代〜80年代の建物。東側の多くは1990年〜以降の新しい建物か、更地になっています。
西と東が分断された当時は、通りが国境だというだけで東西両側に同じようなアパートが立ち並び、行き来も可能でした。
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ー1961年8月13日の夜になるまでは。
8月14日の朝、ベルナウアー通りの東側に住む人たちが目を覚ますと鉄条網が引かれて、西側に行くことはできなくなっていました。「Antifasistischer Schutzwall」東ドイツ国民をファシストたちから守る という名目で作られた壁が、東ドイツの人たちを阻んでいたのです。
ベルナウアー通りを歩いていると、道のそこここに丸いプレートが埋め込まれています。
年月日と、「逃亡」そして人の名前が書かれています。
これは、この場所で、西側へ逃げ(ようとし)た人たちの逃亡の記録なのです。
今年日本で上映された「バルーン 奇蹟の脱出飛行」などで、大スペクタクルな西側への逃亡劇の話が紹介されていますが、ベルリンの場合は国境が目の前にあり、特にベルリンの壁ができた当初は「壁」というほどのものでなかったことや、国境沿いに建物が残っていたりしたこともあって、逃亡はそこまで難しくはありませんでした。アパートの窓から弾みをつけて西側に飛び降りたり、鉄条網を飛び越えたり。
ベルリンの壁ができた1961年から崩壊前年の1988年までに、東から西に逃亡し、成功した数は4万人以上と言われています。
1960年代はかなりの数が成功してまして、1961年は8月からなのに、8507名!
1962年が5761名。1970年代も1000人前後が逃げられたのですが、徐々に減って1985年には160人。
ベルリンの壁がより強固になったこともさることながら、シュタージと呼ばれる国家保安省、東ドイツの秘密警察の暗躍によって、そもそも計画が事前に漏れて実行前に防がれる率が圧倒的に高まったからです。
しかし、中でも数多くの逃亡が成功しているのが、このベルナウアー通り周辺です。
地下水の水位が低くてトンネルが掘りやすいこともあって、350メートルの間に7つもトンネルが掘られました。(上写真は、トンネルがあった場所の印)
映画化もされたトンネル29は1962年に、そして1964年には、史上最長となる「トンネル57」が作られました。その長さは145メートル。大した長さじゃないような気がしますが、深さは12メートル。ベルリンの地質は粘土質で硬さがあるので崩れにくいそうですが、掘るとなったら簡単ではありません。
30人以上がかりで半年。
当時、西ベルリンには、学生を中心とした東ドイツ市民を逃すグループが組織されていたのだそうです。
彼らは、西側のベルナウアー通り97にあった閉店したパン屋の地下室、写真の現像室にするといって借り、トンネルを掘り始めました。資金は、西ベルリンの政治家が負担して、警察がトランシーバーやガスマスクやピストルなどを提供していたそう。
東側の建物の地下室に到着するように計算して掘ったつもりが、東側についた!と思ったらトイレ小屋に出てしまうという嘘のような本当の話。
そこから2晩で57名を東から西側に逃すことに成功しました。
逃亡の暗号は「東京 TOKIO」。
この年のオリンピックの開催地です。
2日目の夜に、もうシュタージは情報を掴んで踏み込んできました。
逃亡を止めるために撃ち合いになり、東ドイツの国境警備隊のエゴン・シュルツが亡くなりました。彼は東ドイツでは、西側の銃弾に倒れた国民的英雄として祭り上げられ、ベルナウアー通りと交差する通りの一つに、彼の名前が付けられました。(現在のStrelitzer Str)
東西ドイツ再統一後の調査で、彼に当たった弾は東ドイツのものだったことがわかっています。
東ドイツはそれをわかっていながら、シュルツの死を利用しました。
トンネルの逃亡を助けた学生は、自分が殺したと信じて、ベルナウアー通りからシュルツの母に当てた謝罪の手紙を、風船につけて送ったそうです。
その手紙は、シュルツの母の手に届いたのでしょうか。
》通りのひとかけら《
マウアーパークこと壁公園の、壁のグラフィティ。
ここはいつもその時々で政治事情を交えて描き変えられることが多いんですが、5月にはBLMでした。ジョージ・フロイド、マルコムxに並んで描かれているのはアンジェラ・デイヴィス。彼女はアメリカの公民運動の活動家ですが、東独で「違うアメリカのヒロイン」「黒いシスター」として熱狂的な支持を受けた人でもありました。
日曜日、ベルナウアー通りを東側へと歩いていくと、どんどんと人が多くなってきます。
ストリートミュージシャンが歌い、遠くからカラオケの叫び、歓声が聞こえる。
ここはマウアーパーク(壁公園)。
広大なフリーマーケットに、カラオケ大会。ベルリンの一大観光スポットでもあります。
今年の6月末に、これまでの倍の15ヘクタールもの大きさに広がり、フリーマーケットはベルナウアー通りの一角と公園の一部へとバラバラになったものの、いまもマスク着用義務と入場制限をしながらも開催されています。
壁公園の上からベルナウアー通りを見下ろしていると、この向こうで銃を構えていた人がいたことなど信じられないような気分になります。
なにはなくとも日曜日はここに集まって、思い思いに過ごす。
禁止されているにもかかわらずバーベキューの煙が立ち上り、踊り、歌い、何にもしないでゴロゴロする人もいる。
なんとものんびりとしたベルリン時間が流れる、この通り。
この場所が、ずっとこうあって欲しいーと願わずにはいられません。