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事実は小説よりドイツなり…君はヒンターカイフェック事件を知っているか?

事件現場となったグルーバー家の家屋 Ⓒ Andreas Biegleder

事実は小説よりドイツなり…君はヒンターカイフェック事件を知っているか?

ドイツ犯罪史上に残る超謎な未解決事件に、「ヒンターカイフェック事件」があります。
それは1922年3月、第一次世界大戦の終結からまだ日も浅く、ドイツ帝国時代の空気が色濃く残るバイエルン州、ミュンヘン北方の農場で起きた一家皆殺し殺人事件です。被害者一家の家長がどケチで権威ぶってて超スケベだったため村人たちから嫌われていた(そもそも、一族みな変わり者として周囲から敬遠されていた…)という時点で早くもドイツ的見ごたえあふれる展開。
で、余談ながらそのどうしようもない家長の名前がアンドレアス・グルーバー。あのオーストリア人ミステリ作家と同じ名前なんですね。なので、なるほどこの怪事件に由来するペンネームなのか……と思ったら実はどうも本名らしい。そうなのか! はい、以上で余談は終わり。

ヒンターカイフェック事件の概略は上記ウィキペディア記事をご参照ください。
本件のミステリ文脈的な萌えポイントは以下のとおりです。

事件現場の石碑 Ⓒ Andreas Keller

事件現場の石碑 Ⓒ Andreas Keller



① 犯人の用意周到っぽさともったいぶり感
② 閉鎖的な村の中のさらに超閉鎖環境というアナザーワールド感
③ 被害者一家のキャラの特濃ぶり
④ ミュンヘン警察によるオカルト捜査の激ヤバ感
これはネタとしておいしすぎる…ミステリ業界たるもの、これを放っておいていいわけがない……
そう、現実の難事件の再解釈といえば、ヴィクトリア朝時代の幼児殺害事件の真相を追ったケイト・サマースケイルのドキュメンタリー『最初の刑事』という大傑作(これは私も感銘を受けた。さすがホームズやポワロを生んだ英国の実績は伊達じゃない。未読の方はぜひ読もう!)があります。ということでヒンターカイフェック事件についても、ドイツミステリが大進化を遂げるまさに直前の2006年、女性作家アンドレア・M・シェンケルが小説『凍える森』を著して、みごと2007年度ドイツミステリ大賞を受賞しています。(ちなみに2009年に映画化されました)

Andrea Maria Schenkel:Tannöd Ⓒ btb TB

Andrea Maria Schenkel:Tannöd Ⓒ btb TB



……さて。
この2006年というのはネレ・ノイハウスフェルディナント・フォン・シーラッハがブレイクする3~4年前です。時間的にはそんな離れていないんだけど、作品の雰囲気が全然違うんですね。ぶっちゃけ「え、このころまではこれで大賞獲れちゃったの?」という感じで、正直な話、脳を揺さぶるダイナミズムに欠けている。ちなみに本作最大のポイントは、物語の時期を第二次世界大戦直後に移し、戦時下の東ヨーロッパからの強制徴用や戦時捕虜の強制労働問題とからめたストーリー展開を行っている点です。
…すると、なんとなく想像つくでしょ。ポーランドから連れてこられた女の子が可哀想な目に遭ったり、労働させられている捕虜のフランス人やロシア人がそれを見て義憤にかられて立ち上がったり……で、実際まさにそういった先入観まんまな話なのです。だからなんというか、「面白い」というよりは「政治的に正しい」「批判しにくい」小説だなぁという印象がぬぐえません。ていうかそれ、謎解きの本題と違うし!
しかも、ナチ反省をするならするで踏み込みが浅いような…同じ女性作家でも、たとえば小野不由美が『屍鬼』にて、ナチス用語をいっさい使わずナチズム原理の闇黒の深層をえぐり出してみせた衝撃とはあまりに対照的で、なんだかドイツ人として申し訳ない気分になってしまいます。

『凍える森』肝心の謎解きは、キリスト教の倫理性とドグマが絡んでくるんです。しかし、バイエルン的なカトリック風土の空気感を読者の側が共有していないと、登場人物の行動心理についてイマイチ納得感に乏しい印象があります。作者と同じバイエルン人が読めば自明のこととして引っかかり無く読めるんだろうけど……うーむむむ(ちなみに、映画版に対する批評では「中途半端なバイエルン方言が気に入らない」という意見があったりするけど、重要なのはそこではない!)
たとえばネレ・ノイハウスは、自作の舞台となるマイン=タウヌス郡というローカルエリアを「読者がぜんぜん知らない」ことを前提に国際レベルの筆致で書いて成功したわけで……やっぱり2000年代終盤の「ドイツミステリの大進化」は激しく劇的だったんだな、とあらためて痛感致します。

事件現場の碑文 Ⓒ Andreas Keller

事件現場の碑文 Ⓒ Andreas Keller



個人的には、『凍える森』作中で全く黙殺されている上記「萌えポイント」の④、ミュンヘン警察のオカルト捜査ぶりにスポットライトを当てて活かしてほしかった。ウィキペディアにも出ていますが、捜査官は心霊鑑定のため被害者の遺体の頭部を切断し、その生首を霊能者のところに持ち込んでいるのです。あきらかに犯人より数段ヤバいことをやっているぞミュンヘン警察! この右斜め上を行くマニアックな疾走感。『最初の刑事』の世界ではとても真似できない&したくもない別種の凄さ。なんというかドイツ人の私も「さすがドイツ!」としか言いようのない超サムシングを感じずにいられません。

……といっても、これは別にふざけているわけではない。
『凍える森』は、関係者の様々な証言の積み重ねによって進行する物語です。もしもその証言どうしがもっと矛盾しあい、かつ、そのどれもが人間的な真実のカケラを含んでいるゆえ捨てがたいものになってゆく展開だったら、読者として萌えたでしょう。そして捜査難航の果てに、霊媒を介した死霊の証言が求められたりすると素晴らしい。果たしてそこで放たれる言霊は、「客観的事実」につながる何かなのか、それとも事件の真相を超えた「すべての人間にとって聞かないほうが幸せ」な心理的真実なのか……
と、要するに芥川龍之介の『藪の中』のパク……いや、オマージュみたいな感じで迫ってみると、ジャンルクロスオーバー的にも相当イケる作品になったのでは? と思ったりする次第です。
(『藪の中』よりも黒澤明による映画化版『羅生門』のほうが国際的には有名ですが、あれは事件の客観的事実が最後に判明するつくりになっているので、本論のターゲットにはなりません。すごくいい映画で、大好きですけど)

そんなわけで、ドイツミステリの充実・成熟期の今こそ、第一線のトップ作家によるヒンターカイフェック事件のシン・再解釈作品が出て欲しい! と感じる今日このごろです。向いている作家としてはフィツェックかな。もともとアイディアの洪水みたいな脳を持つ人だから、そんな企画を割り込ませる余地は無いかもしれないけれど(笑)

それでは、今回はこれにて Tschüss!
(2016.11.22)

© マライ・メントライン

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マライ・メントライン

シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州キール出身。NHK教育 『テレビでドイツ語』 出演。早川書房『ミステリマガジン』誌で「洋書案内」などコラム、エッセイを執筆。最初から日本語で書く、翻訳の手間がかからないお得な存在。しかし、いかにも日本語が話せなさそうな外見のため、お店では英語メニューが出されてしまうという宿命に。 まあ、それもなかなかオツなものですが。

twitterアカウントは @marei_de_pon

マライ・メントライン

翻訳(日→独、独→日)・通訳・よろず物書き業 ドイツ最北部、Uボート基地の町キール出身。実家から半日で北欧ミステリの傑作『ヴァランダー警部』シリーズの舞台、イースタに行けるのに気づいたことをきっかけにミステリ業界に入る。ドイツミステリ案内人として紹介される場合が多いが、自国の身贔屓はしない主義。好きなもの:猫&犬。コーヒー。カメラ。昭和のあれこれ。牛。

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