和製ホラーは絶滅収容所の夢を見るか?…その名は『屍鬼』
「貞子vs伽椰子 恐怖の始球式!」など昨今はネタとしての展開が目立つものの、和製ホラー(Jホラー)作品は、日本独特のじっとりとした恐怖マインドを昇華させた文化媒体として世界的人気を誇っています。
一見ドイツとはまったく無関係ですが、この中で思わぬ発見に出会うこともあるのです。
『屍鬼』というサイコホラーの名作があります。漫画版、アニメ版も傑作として名高いですね。あまり興醒めにならない程度に概略を述べると…
①土葬の風習など一定の条件を満たした日本のある山村で、屍鬼(吸血ゾンビ)が密かに増殖を開始し、現代的な自治体システムや地域特性を踏まえた巧みな計略で村を乗っ取ってゆく。
②屍鬼に斃されて土葬された村人のうち一定割合が屍鬼として復活する。屍鬼になっても元の記憶や良識や理性は継続しているが、通常の人血以外摂取できない体質になっているため、人を襲わないといけない。
③村の医師と少年が「なんかおかしいな」と気づき、別個に調査を始め、そしてそれぞれ戦いに突入してゆく。
④ある時点で屍鬼システムの真相が判明し、屍鬼化していない村人たちが大逆襲に転じる。精神的には屍鬼よりも村人のほうが異常な存在と化してゆく。
⑤ちなみに、時代背景的には社会の広範なネット化直前(1990年代前半?)あたりと思われる。
最後は「戦い」ではなく一方的な殺戮になるんです。屍鬼ではなく村人たちによる。で、それが収束して大量の屍鬼の死体をどうしようか、と悩んでいるところに山火事が発生するんですね。やばい。このままでは後片付けできないうちに火が回ってしまう。この現場の惨状は、燃えてチャラになるほど甘いものではない。早く証拠隠滅しなくては。倫理など気にしている場合じゃない!
…という場面で、読者である私は強烈な既視感に襲われました。
「これは…絶滅収容所の撤退時の情景だ!」
大戦末期、東部戦線でロシア軍の進出に応じて行われたナチス絶滅収容所の撤退。あの切迫しきった地獄ぶりの本質がまさに見事に再現されていたのです。
なんか凄い作品だなこれは…いや、実はこのシーンだけでナチスが想起されたわけではない。よく考えると、そう、ここに至るまでの下地で、すでに…
そもそも、いわゆる「ホロコーストもの」作品で描かれる加害者側の精神状態は、おおかた以下の2つに分けられます。
①『シンドラーのリスト』アーモン・ゲートSS大尉タイプ:「オレは暴力を通じてしか感情を表現できないんだ!」:サディスト人格
②アドルフ・アイヒマンSS中佐タイプ:「私は最善の形で命令を遂行しただけなんです」:想像力欠落的テクノクラート人格
確かに、この両者の組み合わせによるホロコースト加害の精神病理の説明はいちおう可能で、世間的にもそれで問題なく通用しています。
しかし私は以前から疑問に思っていました。これはあまりに図式的で極論すぎる。常識的に考えると、現場当事者の意識構造には、もっと覚悟不足で中途半端に良識をひきずっていて、それゆえ暴力が先鋭化したケースも少なからず存在するのではないか…?
実は、この点を明快かつ的確に突いた研究書があります。
『普通の人びと…ホロコーストと第101警察予備大隊』
第101警察予備大隊はハンブルクを本拠地とする制服警官の部隊で、戦時中、いきなりユダヤ人襲撃・殺戮任務に動員された。当初「神様!そんな恐ろしいことは出来ません…!」と慄いていた妻子持ちの中年警官たちは、ある一線を越えると開き直ったように次第に嬉々として「作業」に赴くようになり、逆に、「劣等人種の処理なんて楽勝だぜ!」と息巻いていたナチかぶれの若いエリート隊員は、その言葉と裏腹に次第に精神を病み、リタイヤしていった…
はい。結論を言いましょう。
『屍鬼』は、『普通の人びと』で浮き彫りにされた人間精神の闇黒メカニズムの要点を、吸血鬼という要素を軸に変奏展開したような作品なのです。著者の小野不由美さんがそれを意図していたかどうかは不明(そう、才能ある作家は無意識に天啓を記述する!)ですが、結果として、見事にそういうモノになっています。屍鬼の不気味さやモンスター性と裏腹に、「正義」のはずの人間側がナチ的罪業を背負ってしまう展開が圧巻。そして、善人も悪人も同様に報われず死んでゆく強烈な無常感…ここには、一般に広く語られていないホロコースト心理のエッセンスが展開されているのです。
作中、人間も屍鬼もひとしく、「過去の日常性の延長を主観的につくりあげ、その中に逃避する」存在として描かれます。主観と客観のギャップが常態化してゆき、矛盾が矛盾として認識されず、主観の中で巧みに正当化される…この心理モードの多発が異常事態そのものを下支えし、加速させてしまうのです。
これは70年前、ナチスの強制収容所にて、親衛隊の看守とユダヤ人の被収容者それぞれの内面で発生した現象そのものです。本当に重要な「忘れてはならない」精神的ダイナミズムといえます。
『屍鬼』は、異質で相容れないと判断された存在に対する集団ヒステリーの力学を、政治・歴史的な「正しさ」のバイアスを抜きにシミュレートしてみせた作品ともいえるでしょう。ここで吸血鬼という要素を介在させたのは、現実以上に現実の核心を射抜くための優れた問題提起の手法だと思います。
本作は「サイコホラー」ですが、決して「絵空事」ではありません。ホラーという形式を援用して、不安心理の実際的本質を描きぬいた逸品なのです。底無しに哀しく怖ろしい。
『屍鬼』の場合、先述したようにナチズム心理との相関性は意図的なものか否か不明です。が、実は、意図して「一見無関係に見える」作品を書き上げた例が存在します。
かの超名画『ブレードランナー』の原作としても名高い傑作SF小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』のメインテーマは何か? とインタビューで聞かれた著者フィリップ・K・ディックは、「ナチスだ」と率直に返答しているのです。
超人的破壊力を持つ犯罪アンドロイドたちを狩る捜査官を主人公とした物語…しかしディックが「ナチス」と認識しているのは、あきらかに犯罪アンドロイド側ではない…!
たぶんこの考察は、形を変えたりしながらまたどこかで続きます。
それでは、今回はこれにて Tschüss!
(2016.06.09)
マライ・メントライン
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州キール出身。NHK教育 『テレビでドイツ語』 出演。早川書房『ミステリマガジン』誌で「洋書案内」などコラム、エッセイを執筆。最初から日本語で書く、翻訳の手間がかからないお得な存在。しかし、いかにも日本語が話せなさそうな外見のため、お店では英語メニューが出されてしまうという宿命に。 まあ、それもなかなかオツなものですが。
twitterアカウントは @marei_de_pon 。