「いじめ」という言葉について
前回、日本の一部の小学校や中学校でのハーフに対するいじめについて書きました。しかし皆さんご存知のように、ハーフに限らず、いじめは大きな社会問題であり、昨年大津市で起きたいじめ事件を見ても、卑劣極まりない内容のものが目立ちます。
こういう事件が起きるたびに感じるのは、「いじめ」という言葉は「軽過ぎる」のではないか?ということです。
なぜなら、その「いじめ」の内容を雑誌で読むと、「複数で女生徒をトイレに押し込みスカートをめくりカメラでその様子を撮影した」、「被害者の体操着をカバンから抜き取り隠した」、大津市の件では「イジメっ子数人が被害者宅に押しかけ被害者の部屋を荒らした」「被害者に自殺の練習をさせた」「金銭を要求し、払えないと暴行すると脅した」「万引きを強要した」「複数で殴る蹴るの暴行を加えた」とあり、これらの行為は大人同士であれば間違いなく、強制わいせつ、窃盗、住居侵入罪、脅迫、恐喝、暴行、にあたります。
それなのに、これら全ての行為を「中学生同士のことだから」「未成年の子供達のことだから」「学校内のことだから」と、本来は犯罪に値する行為の数々を「いじめ」という言葉で濁してしまうことに強い違和感を持ちます。
聞けば、過去のこのようないじめにおいて、警察に相談しても、子供同士のいじめだからと学校内で解決するように、と言われたり被害届を受理してくれないことがあったそうです。(注:こういう場合は早急に弁護士さんに相談をし、弁護士さん同伴で警察に行くことをおすすめします。)
「学校の中」は、世の中の法律が通用しない完全無法地帯(戦地や戦場のような)になってしまっていた現実があるわけです。
学校の中のほうが路上での一人歩きよりもある意味危険だなんて、物騒な世の中だな、、、と疑問に思っていたのですが、最近になって、安倍首相の「教育再生実行会議」の成果もあり学校内のいじめであっても警察へ通報することが義務付けられる方向へ改善されると聞き、やっと健全な方向へ動いているなと感じます。
それにしても、本来は犯罪だったり反社会的な行為が、「学校」や「組織」というフィルターがかかった途端に、多くの人があまり疑問を持たずに「ささいなこと」として受け止めがちな風潮を怖いなと感じています。皆さんはどう思われますか?
★ホームページ「ハーフを考えよう」も併せてご覧ください。
サンドラ・ヘフェリン
ドイツ・ミュンヘン出身。日本歴15年、著書に「浪費が止まるドイツ節約生活の楽しみ」(光文社)、近著「ハーフが美人なんて妄想ですから!!」(中公新書ラクレ) など6冊。自らの日独ハーフとしての経験も含め「ハーフ」について執筆している。趣味は時事トピックについてディベートすること、カラオケ、執筆、散歩。目黒川沿いや碑文谷をよく散歩している。
ホームページ