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ハーフと時代 Part1

ハーフと時代 Part1

絵画コンテスト2010「わたしのドイツ」中学生の部 その3(1) 大使賞

ハーフと時代 Part1

私は70年代生まれなのだが、80年代や90年代、2000年代生まれのハーフ(まだ子供ですね)と話していていると彼等をうらやましいな、と感じることがある。



というのは、今はハーフの数が昔と比べ増えてきていて「仲間」を見つけることが簡単になってきているからだ。私自身は幼い頃、ハーフの友達を作れない環境で育ったので、ハーフは私1人だった。周りはほとんどが純ドイツ人や純日本人という環境だったので寂しいというか疎外感を感じたことがある。それに比べ今はハーフの数も多くなってきているため知り合う機会も昔より多いし、それに何よりインターネットがあるので、身近にハーフがいない場合でもネットなどでハーフの集まりを見つける事もできる。



そう、私の子供の頃はまだインターネットも電子メールも無い時代だったのだ! ドイツに住んでいた私は日本にいるおじいちゃんおばあちゃんや親戚、友達に手紙を書いて郵便局から送っていた.。手紙が日本に届くまでに1週間。そして返事が来るまでにまた1週間(そういえば、封筒の裏に書いていた”West-Germany”は今は死語だなあ)。国際電話といっても、よほどの事がない限り当時は電話をかけなかったし、やりとりはほとんどが郵便だった。でも今はメール一本で簡単に連絡が取れる時代。そんな便利な時代に子供時代を過ごしているハーフがうらやましい(笑)



あと、私が子供の頃は今より飛行機代も高く、今ほど頻繁に日本とドイツを行ったり来たりできる時代ではなかった。当時、ドイツから日本へ行くのに比較的便利な航空会社はアエロ・フロートだったけれど(←アンカレッジ経由ではないため)、当時は冷戦時代で、モスクワで乗り換えの際に親が妙に緊張していたのを覚えている。そんな時代だった。最近は電車に乗るような感覚で飛行機に乗り、ドイツに住みながら1年に2回や3回日本に遊びに来ているハーフもいて、いいなー、私の子供の頃は考えられないことだったよ、なんて思う(笑)。しかしこれは口に出してしまうと「アナタは知らないだろうけど、昔は…」と若者を前に説教を垂れるオジサンオバサンみたいになってしまうので、なるべく言わないようにしている(笑)。



余談だが、今は「飛行機が便利!」だと思っているけれど、もしかしたら何百年後には「昔の人って飛行機で移動してたんでしょ? 今はみんな「どこでもドアー」で行けちゃうのにね」。なんて未来の人が言っているかもしれません (笑)。ANAやJALも「ANAどこでもドアー社」「JALどこでもドアー社」に社名が変わっていたりして。昔は飛行機を扱っていたけれど今はどこでもドアーなんですよ、なんて。



さて話を元に戻すと、たとえば90年代に生まれたハーフは物心ついた時にはインターネットもメールもあったし、電気製品や機械に囲まれて育ったせいか私から見ると機械オンチが少ない。いやはや、やっぱりこれもうらやましい!



でも実は一番うらやましいのは、インターネットやメール、移動の手段よりも、やっぱり社会全体が国際的になってきていて、その結果、ハーフに対しても学校などが昔と比べるとかなりオープンになっている、という点かな。



上に「学校」と書いたが、70年代後半や80年代前半は多くの日本企業がヨーロッパを含む海外に進出を図ったが、それと同時に世界各地で当時設立された「日本語補習校」や「日本人学校」の体制はとても国際的と言えるものではなかった。例を挙げると、ヨーロッパのある日本語補習校が、クラスの振り分けを子供の「人種」を基準に行っていた点。ハーフは当たり前のように「混血児」として『邦人クラス』ではなく『国際クラス』なるものに放り込まれた。ハーフ本人の日本語能力などは関係がなく、人種での振り分け。ハーフ本人の能力に応じて邦人クラスに入るか、国際クラスに入るかを選べるようになるまでにかなりの時間を要した。



70年代や80年代は、親がかなり学校側と交渉をしないと日本国内の小学校には入れてもらえないハーフも当時はいた。世の中が必ずしも「ハーフも我々と一緒に学べばよいではないか」という風潮ではなかったのは確か。



アメリカのある日本語補習校の小学校に関しては当時、日本国籍のハーフの子供のみ入学を受け付け、日本国籍以外のハーフに関しては入学の道が閉ざされていた。ハーフの子供が日本語を習おうという時、親と子供がその気になっていても、周りは決してそれを応援するような体制ではなかったのだ。



当時は日本人の教育関係者にも「ハーフはどう転んでも日本人ではない」と考えている人が非常に多かった。「当校は日本人の学校ですので、混血のお子さんは国際クラスなんですよ」と「混血のお子さん!」と堂々と当たり前のように言ってしまう教育関係者。80年代前半って、バブルの来るちょっと前で、日本企業が沢山ヨーロッパに進出していた時代だったけれど、人々のマインドは追いついておらず国際的でないどころか、かなり閉鎖的な時代でもあったのだ。



もしかしたら私が「ハーフ」のテーマにかなりこだわるのもそういった時代背景をギリギリまだ体験しているからなのかもしれませんね。その悔しさを思い出すと絶対に「ハーフの活動」はやめられない! なんて思うほど(笑)



当時の時代背景もあるし、個人的には誰が悪いというわけではないとは思うのだが、少しずつ国際化していってめでたしめでたし、なんて思っている。



コラム「バイリンガルのハーフがされる質問




YG_JA_3163[1]サンドラ・ヘフェリン



ドイツ・ミュンヘン出身。日本歴 13年、著書に「浪費が止まるドイツ節約生活の楽しみ」(光文社) など 5冊。自らが日独ハーフであることから「ハーフ」について詳しい。ちなみにハーフに関する連載は月刊誌に続き今回が 2回目である。趣味は執筆と散歩。目黒川沿いや碑文谷をよく散歩している。

サンドラ・ヘフェリン

ドイツ・ミュンヘン出身。日本歴19年、著書に「ハーフが美人なんて妄想ですから!!」(中公新書ラクレ) 、「ニッポン在住ハーフな私の切実で笑える100のモンダイ』(原作: サンドラ・ヘフェリン、漫画: ヒラマツオ/KADOKAWA)、「『小顔』ってニホンではホメ言葉なんだ!?~ドイツ人が驚く日本の「日常」~」(原作: サンドラ・ヘフェリン、漫画: 流水りんこ/KKベストセラーズ)」など計11冊。自身が日独ハーフであることから、≪ハーフはナニジン?≫、≪ハーフとバイリンガル教育≫、≪ハーフと日本のいじめ問題≫など「多文化共生」をテーマに執筆活動をしている。ホームページ 「ハーフを考えよう!」 を運営。趣味は時事トピックについてディベートすること、カラオケ、散歩。

サンドラ・ヘフェリン