ハーフはナニジン?
日本とドイツのハーフは日本人なのか? それともドイツ人なのか? 実際にどっちの国籍を持っているかは別として、ここではハーフの「心」にスポットをあてていきたいと思います。ハーフ自身は自分をドイツ人だと感じているのでしょうか? それとも日本人だと感じているのでしょうか?
私の知り合いの日独ハーフでずっとドイツで育ち、日本語や日本の影響をあまり受けて来なかった女性がいますが、彼女は自分のアイデンティティーを「ドイツ人」だと言います。これはある意味自然な流れなのかもしれません。とはいっても、お母さんが日本人なので、半分日本人なんだし、一度は日本に住んでみるべきではないのか? 日本語を習うべきではないのか? と一時期悩んだこともあったそうです。なので今、彼女が「私はドイツ人」と言っても、それはそれなりに色々考えた末に彼女が出した答えです。
では日本で育った日独ハーフの場合はどうでしょうか。ドイツ語やドイツの影響をあまり受けず、日本の学校にずっと通い日本語中心の生活をおくってきたハーフなら、その人のアイデンティティーは「日本人」だと言いたいところですが、容姿が他の「生粋日本人」とは違い、それを周りの人に指摘されることも多いため、「自分は日本人」と堂々と言っちゃっていいものなのか、と悩む人も多いようです。でも育ってきた環境の中で、日本語や日本の文化の影響が大半を定めているのなら、結局「自分のアイデンティティーは日本人」というところに落ち着くことが多いようです。
そうすると、小さい時から日本語とドイツ語の両方を習い、ドイツの文化と日本の文化を同時進行で教えられてきたハーフのアイデンティティー問題が一番ややこしそうです(笑)。ドイツで育ち、日本語補習校などに通いながら、親に日本語を教えられた場合 (私のケースです)もそうですし、逆に日本育ちだけれど、幼稚園や小学校の頃からずっと横浜のドイツ学園に通い、日本にいながらドイツの教育システムにどっぷり浸かった生活をしてきたハーフも、ことアイデンティティーになると簡単に「パッ」と答えることは難しいみたいです。だって自分はドイツ人だし日本人 (ポジティブに見ればね)。
でもドイツ人だけど完全にドイツ人ではない。だって半分日本人なんだもの。そして日本人だけど完全に日本人ではない。だって半分ドイツ人なんだもの。
そもそも語学力・考え方・趣味思考・行動などの面において「同時に日本人でありドイツ人である」なんてことは可能なのだろうか? これは面白い研究テーマかもしれない (笑)。
私は、日本とドイツは真逆 (正反対) の部分も多いと思っているので、考え方やキャラクターの面において「日本人であり同時にドイツ人でもある」っていうのはちょっと無理じゃないか、なんて思っている。昔から「日本とドイツは似ている」と言われているけれど、「時間を守る」、「計画好き」、「仕事が細かい」などの部分を指していると思うのですね。あと、仕事をしてきた上での個人的な感想だけど、ドイツ人も日本人も、他の国の人に比べると、メールが長い!(笑)でももっと他のことにスポットを当てると、「真逆」の部分がかなり多いんですよ、日本とドイツとでは。
私はドイツでも「バイエルン地方」の出身なので、余計そう感じるのかもしれませんが、「不平不満や苦情を大声で言うのが当たり前のバイエルンの雰囲気」 VS 「ネガティブな事や不満はあまり言わないのが良いとされている日本の雰囲気」は「正反対」です。バイエルンの場合は口調がキツイ&結構ハードな内容の事を平気で言ったりするのですが、"Es wird nicht so heiss gegessen wie gekocht wird." (訳:「調理する時は熱くても、その同じ熱さのまま食事をするわけではない」⇒言っている内容ほど事態は悪くはない、という意味です。つまり口で言った事は強烈でキツくても、実際はそれほどではない、ということ)という言い回しがあるように、それは単なる会話のスタイルであってその人に悪意があるわけではありません。
バイエルン地方でなくても「ドイツでは人前ではっきりと自己主張をする事が大事だとされている」 VS 「日本では控えめで聞き上手が良しとされている」し、けっこう「逆」の部分が多いです。私は女性だけれど、特に「女」に関する考え方がドイツと日本とでは真逆な部分が多く、私は昔も今も葛藤を抱えています。例えば化粧。「ドイツは「化粧? 別に必要ないんじゃないの? やりたい人はやればいいんじゃないの?」っていうスタンス」VS 「日本は女として化粧をするのは身だしなみであり当たり前のこと」っていうのも私は毎回毎回混乱するし、「ドイツは女の子&女性は脚を組むのはOK」 VS 「日本は女性は脚をそろえて座らないとお行儀悪いとされる」なんてのもその典型。そのほかにも「女性はやっぱり笑顔」の日本と、そうではないドイツ、など例を挙げたらキリがないほど。
「アイデンティティー」×「女性であること」の両方で葛藤を抱えることになるんですよね。
例えば、ホームパーティーに行ってみると、ホームパーティーの最中、日本人女性は大体キッチンに集まりみんなで食事の支度をしているんですね。トントントンって野菜を切ったり、何かを盛り付けたり。で、キッチンに隣接する居間を見渡すと、そこはドイツ人女性がみんなリラックスして会話をしている。誰一人食事の準備はしていない。私、何回かこのシチュエーションに出くわしたことがありまして、このシチュエーションが苦手だったりします。というのは、こういう場にいると「さあサンドラ! アナタはどっちなの?」と、自分がドイツ人女性の輪に加わるか、それとも日本人女性の輪に加わるか、決断を迫られるからです。いやもっと言っちゃうと、「自分は日本人女性なのか」それとも「ドイツ人女性なのか」の決断を迫られている気持ちになるからです。だいたいは私、どっちの輪にも気持ちよく加わることができず、庭に逃げてそこでウロウロしていたりします(笑)。
どちらが良い、とか、どちらが悪いということではなく、これがドイツでの「女」と日本でいう「女」のあり方の違いなんですよね。日本では女性は料理をするのが当たり前だし、お盆やホームパーティーなど集団で集まる場では女性が「おさんどん」の面で何か役に立てるところを手伝うのは当たり前。でもドイツ的な感覚で言うと、「女性だから料理」というのはマッチョな考え方なんです。
皆さんも、もし日本人とドイツ人の男女が集まるようなホームパーティーに行くことがあったら観察してみて下さい。きっと私が上に書いた通りですよ(笑)。あ、「ドイツ人」でなくても、アメリカ人などの欧米人の場合も上記の構図 (日本人女性は台所で働き、欧米人女性は居間で男性と共に雑談&リラックス) が当てはまります(笑)。
まあ料理にしても笑顔にしても、求められればそれに応える、というふうに臨機応変に対応していけばよい気もしますが、これらのことは小さなことのようで実はけっこう人間のキャラクターをprägen(刻み込む)するものだと思う。なので1人の人間として、日本とドイツの両方の国の文化が求めている事すべてに生真面目に応えようと、「私は日本とドイツのハーフなんだから同時に日本人としてもドイツ人としてもパーフェクトにしなきゃ!」なんてリキんでしまうと、「大きい声で自分の意見はハッキリ!!!...あ...でも控えめにしなきゃいけないんだったっけ....」などと変な葛藤を抱え込むことになります(一時期の私の状態。今も完全に脱してはいないんですが)。
やっぱり臨機応変の対応が大事で、器用な人はその時その時でパッと態度を変えられるのでしょうけど。ちなみにこの「器用さ」を身につけることは私の目標で、今もまだ諦めていません(笑)!
パーセンテージでいえば、幼い時から日本とドイツの両方の言語と文化の影響を受けてきたからといって、ハーフのアイデンティティーが「ドイツと日本がいつも半々」というわけではないんです。つまりいつも「50%は日本人で50%はドイツ人」というわけではない、ということ。その時によって「80%ドイツ人で、20%日本人」だったり、その逆だったり。パーセンテージは、その人のその時の状況によって変わってくる。ドイツ人の仕事仲間と一日の大半を過ごしていれば、自分の中で「ドイツ人」の部分が多くなるかもしれないし、日本人の彼氏がいたりしたら自分が日本っぽくなったり。
要はアイデンティティー的なものって、一度決まればそれで一生決定! というわけではなく、その時期その時期によって変わっていく。
この間、日独ハーフの女性と話していて面白い、と思ったのは、その女性はずっと日本育ちで横浜のドイツ学園に通って、卒業してからドイツの大学に進んだんですね。つまり大人になって初めてドイツに住んだ。ところが不思議なことに、そのドイツに住んだ大学時代の数年間が意外にも彼女にとっては一番「日本どっぷりの期間」だったらしい。ドイツに行って、生まれて初めて日本人の彼氏ができたとか(笑)、ドイツにいながら日本人の友達と沢山遊び、そこでの数年間は彼女にとって「日本が濃い」時期だった。不思議ですよね。「日本」という国と接点がなくなろうとすると、それを補うかのように日本人との接点を求めたり自分自身がすごく「日本人的」になったり(笑)。不思議なんだけど、なんだか分かる気がする。どの場所にいても、「もう一人の自分」が恋しくなるっていうことなんだと思う。日本にいれば、ドイツとの接点を作って初めて安心するし、ドイツにいたら日本との接点を持つことでホッとする。日本・ドイツの両方の「バランス」が日独バイリンガルハーフには必要みたいです。片方としか接していないと、自分のどこかが欠けている気持ちになってしまうんでしょうね。
そしてハーフの場合、同じ「ハーフ仲間」との交流も大事なんじゃないかな。私の場合は時代 & 周りの環境もあって、子供の頃はハーフの友達が一人もいなかったので、大人になってハーフの友達と出会えた事にとても感謝している。今、私の友達にはハーフが多く、共に色んなイベントに出かけていったりしているので「同じ者同士 (=ハーフ同士)でツルむのってどうなのよ ?」ってツッコミが入ることもあります…。でもハーフ同士でツルむのが悪いとは思わない。私にしてみたら、子供時代 & 思春期の頃にはいなかった「やっとできたハーフの友達」だもん。生粋日本人も日本人とツルむことが多いし、生粋ドイツ人だってドイツ人とツルんだりする。でも誰も何も言わないよね。ハーフは目立つから目立つ者同士がツルむと、「いけないよ、偏ってるよ」みたいに言われたりすることもあるけどけど納得いかないなあ。ハーフ同士の交流の中で自分のアイデンティティーについてヒントを得られたりすることもあるしね。
そしてアイデンティティーの問題は、ハーフにとって「大人になって初めて向き合う問題」ではなく、「子供の時から」向き合っている問題でもあるんだ。私自身「日本とドイツとでは人間関係や人の考え方がすごい違う!」というのは小学校の頃から無意識に感じていました。
子供だから「アイデンティティー」とか難しいことは分からなかったけれど、でもそれでも場面場面においてある種の「疎外感」は感じていた。私は子供の頃、周りにハーフがいなくて、常に「生粋日本人の中にポツンと私というハーフが一人」みたいな状態だったんだよね。「変なのが一匹いた」状態 (笑)。ドイツの学校もいわゆる「ドイツドイツ」したドイツ人が多くて、ハーフの私はレアだったな。それで子供なりに不思議に思っていたのが、クラスの人気者になるタイプが日本人学校とドイツ人学校とでは全く違うこと! ドイツの小学校で人気者になるのはテーブルの上からイエーイ!!!って飛び降りちゃったりする元気な女の子。「何でもやっちゃえ」みたいな思い切りがいい感じの女の子。でも日本人学校で人気者だったのは、そういうことを牽制するような子。みんなのことを心配して回るような気配りのできる子が日本人学校では人気者だった。明るいんだけど、ドイツの学校の人気者のようなケタ外れの明るさではない。明るいんだけど、礼儀正しく先生の言うことをキチンと聞く子。昔から私、観察するのは好きで、よく人気者同士を比べて「○○ちゃん (←日本人学校の人気者)と●●(ドイツの学校の人気者) は全然やってることがちがうな…」なんて思ってた。子供なりに参考になりそうな「お手本」を見つけようと試みたけど、日本とドイツとでは、その「お手本」があまりに違うので更に混乱した、みたいな (笑)。
で、そんな時に自分の顔を鏡で見ると…、そこには日本人学校にもドイツ人学校にも無いような「顔」が…。私ってなんだか変だなと思ったものです。ドイツの学校の金髪の子とも全然違うし、日本の学校の子とも顔が全然違うじゃん、なんて。当時は自分がハーフでそれが容姿にも影響する、なんてことは分かりませんからね (笑)。
でも小学校の頃に鏡を見て悟ったことが一つ。私は人気者になれないなって(笑)。あまりメジャーじゃない顔を見て直感的にそう思ったのかな。
その子のアイデンティティーに対して、周りの大人に何かできることがあるとしたら「常にオープンな気持ち」でいることだと思う。何も否定しないこと。そして子供にアイデンティティーを「押し付けない」こと。残念なことに、せっかく子供が両方の文化と言語を学ぶ場にいるのに、周りの大人がゴチャゴチャ言っちゃうことって結構あったりするんだ。例えば、ある日独ハーフの子供はドイツの日本語補習校の小学校に上がろうとした際に (日本語はそれなりにできた)、その子と親が、補習校の日本人の先生に「○○ちゃんはドイツ人なんだし、将来ドイツに住むんだから、日本語をそんなに頑張る必要はないと思う」と言われた。この発言の何が微妙かというと、まず「アナタはドイツ人」だと決め付けていること。日本人かもしれませんよ。それから「アナタは将来ドイツに住むんだから」と決め付けていること。今の時代、大人になってからどの国に住むかなんて分からないのにね(現にドイツで育って、大人になってから日本に来た私みたいなケースもあるしね。こんなグローバルな時代、将来どこの国にいるかなんてだれもわからないよね。だからその分スキルを沢山身につけなければいけない)。その子の「将来」や「アイデンティティー」が「分からない」なら「分からない」ままでいいと思うんです。6歳の子供を相手に周りの教育関係者や大人がこの類のことを決め付ける必要は全くない。だってまだ 6歳ですよ。色んな可能性があるので、本人と親が「やりたい」ってやる気になっているのだったら「それを延ばしてあげること」、「チャンスを与えてあげること」、それが周りの大人の役割なんじゃないかな。
ちなみに、その女性は私よりいくつか年下だけど、今ドイツ語と日本語の両方が流暢です。あの時、先生の事を聞かないで親子でがんばって良かったですよね。
これはほんの一例だけれど、ハーフの子供のアイデンティティーは、周りの大人が勝手に決めちゃわないことが大事なんじゃないかな。
子供の時から日本語とドイツ語を習い、両方の国の友達を作り、色んなスキルを身に付けて、色んな経験をして、色々自分で考えて…、そして大人になってハーフ本人が「自分のアイデンティティー」を「自分で」決めればいいんじゃないのかな。アイデンティティーは言葉を習った上で、そして文化を知った上で、大人になってから「ハーフ本人」が決める。
それにしても「ハーフ」ほど、容姿(「ハーフはかわいい?」)、言葉(「ハーフはみんなバイリンガル?」)、アイデンティティーなど周りがゴチャゴチャ言って「本人」がないがしろにされちゃってるテーマも珍しいんじゃないかな (笑)。
色々書いちゃったけど、ハーフのアイデンティティー、つまりハーフはナニジン ? というのは結局ハーフ本人の気持ち。そう、キーワードは「本人」かな。ハーフ本人が私はドイツ人 ! と言えばその通りだし、私は日本人 ! と言えばそれもその通り。もちろんどっちにも決めない、というのもアリだし、一生どっちなのかなー? なんて悩んでいてもいいわけだけどね。それはそれで考えることが多くて哲学的な人生になりそうです(笑)。
サンドラ・ヘフェリン
ドイツ・ミュンヘン出身。日本歴12年、著書に「浪費が止まるドイツ節約生活の楽しみ」(光文社) など5冊。自らが日独ハーフである事から、「ハーフ」について詳しい。ちなみにハーフに関する連載は月刊誌に続き今回が2回目である。趣味は執筆と散歩。目黒川沿いや碑文谷をよく散歩している。