ドイツ情報満載 - YOUNG GERMANY by ドイツ大使館

『先生の野望と目的とは』

『先生の野望と目的とは』

今回のテーマは『先生の野望と目的とは』です。

お話を伺ったのは現在子供達や生徒さん達に柔道、剣道、居合道を指導され、ベルリンで道場「Kokugikan」を設立、運営されておられる、柔道6段、剣道7段、居合道6段の腕前をお持ちの青木光義さんです。

東京国士舘大学在学時に日本政府の青年海外協力隊を通じて海外に派遣され、最初の駐在先ザンビアでは柔道のナショナルコーチとして派遣、その後ドイツに渡り、TSV Munich Grosshadern、バイエルン州協会で柔道のコーチを務められた経歴をお持ちです。

今回は半世紀に渡り武道を伝えてこられたお話を伺えるということで、ベルリンにある道場「Kokugikan」に出向きました。

先生今日はよろしくお願いします。まず先生の経歴から順番にお話を伺えればと思っているのですが。
『国士舘大学の柔道部にいた2年の時に外国に行って柔道の指導者になるって決めたんですよ、それで英語を習い始めてですね、国士舘大学の柔道クラブに4人の外国人が来てたんです、その中の一人イギリスのハワード先生という国士舘大学のessというところで先生をしていた人が『青木さん、もし英語を学びたかったらそこに人が集まってるから来なさい』と、それで行って2年間英語を習ったんですよ、要するになんとか外国に行きたいって決心してたんで。その他にカナダとオーストラリアとフランス人がいたんですよ』
留学生ですか?
『ただ国士舘大学の柔道部に練習に来るっていう、まだ若い大人の方達なんですけど、他の人は彼らの面倒を見なかったんですよ、私がその4人を面倒見たんです』
先生は英語ベラベラなんですか?
『英語はまあ忘れちゃったけど、ザンビアに居た時はずっと英語で生活してました』
ちなみに先生は何ヶ国語喋られるんですか?
『ドイツ語と英語と日本語、でも英語はもう忘れちゃったね、使ってないもん』
ちょっと話が前後するんですけど、大学2年生の時に外国に行って柔道を教えるって決めたってさらっとおっしゃってたじゃないですか。
『外国に興味があったんです。他の国がどうなっているのか興味を持っていたんですよね、どういう奴らが柔道をやりたいって思ってるのか』
この時はちょうど20歳ぐらい、1960年代ですよね。
『そうそう、ちょうど1966年か』
海外に興味を持ったっていうのは漠然とした海外への興味ですか?
『要するにどう言えばいいのかな、憧れっていうのか、指導をする憧れがあったんですよ、行ってですね、そうすると日本と全然違う、私の経験として個人がものすごい重要だってことが分かったんですよ、日本人は団体で生活するでしょ、私の一人の意見とかは全然通用しないですから、外国行って個人の重要さが身に染みて分かったの。私が居ないと誰もやってくれない、私が責任を持ってやらなきゃいけない、ほかに頼れない、自分を大切にしないとダメなんですよ、それを私は外国に行って感じたんですよ』
この1960年代、70年代の日本というのはいわゆる高度経済成長期で、国内で暮らして行こうと思えばやっていける環境やいろんな選択肢があったんじゃないかと思うのですが、外国に行って何かやろうという決心に至った何か大きな出来事などきっかけがあったんでしょうか?
『やっぱり高校生の時に体育の先生と一緒に見た東京オリンピックでしょうね、その時に見た柔道の外国人の選手がいっぱいいてすごいなあと、なんで外国人が柔道をやってるんだろうっていう興味がありましたね』
東京オリンピックが外国に興味をもった最初のきっかけだったんですね。
自分が聞いてみたいと思ったのは、青年海外協力隊で海外に行って武道を教えたいって思われたところなんですが、自分の父が青木先生と同年代ぐらいで、父の話を聞いた中では高度経済成長期の中、国としてこれからという時に国内にはいろんな可能性があったと、そういう中で外国に行くっていう感覚はどういうものだったんですか?
例えばですけど今となっては外国の情報はインターネットを見ればある程度のことは手に入るんですけど、当時はどれぐらいの外国の情報があったとか。
『こんな国だっていう情報は一応大学にはあって』
今と比べるとほとんどなかったですか?
『なかったですね』
ほとんど情報がない中、外国に行ってみようという動機みたいなものは何かあったんですか?
『日本で経験できないことを外国で経験したいなっていうのはありましたね』
ある程度の見通しがあって外国に行かれたんですか?それとも割と行き当たりばったりって感じだったんですか?
『いやいや、私はもう大学2年生の時にやるって決めたんで、青年海外協力隊に試験があるんですよ、その時は英語で会話だったんですけどバチっと合格したんです』
やるって決められるとそのための労力は惜しまずという感じですか?
『そうです』
日本から外国に行こうと思う人たちは年々増えてる傾向にあるんですが、そういう人達について何か思われることはありますか?
『恐れっていうか、最初外国に行って生活するのが怖いっていうのはあるんじゃないですかね、言葉の不自由さがあるでしょ、多分それが一番の問題じゃないかと思います、私は外国に行って英語もうまくなったし、外国人の生徒さんを色々見てきて、どこもみんな同じなんだなと、馬鹿もいるし頭のいい人もいるし、それが段々と分かってきたんですよ(笑)ただ言葉が出来ないと見てるだけじゃ分かんないですよ、会話して初めて分かるっていう、言葉はものすごく重要だなって、旅行だけなら言葉はいらないじゃないですか、だけどその国に入って生活した場合言葉が通じないとやっていけないから、言葉の重要さは身に染みて感じましたよね』
最初行かれた時は言葉の問題は無かったんですか?
『最初はありましたけど、交渉する時の文章の書き方だとか難しかったですけど、日常の会話は大丈夫でした』
試験に合格して英語が一応は話せるってことはある程度自信になりましたか?
『そうですね、言葉ができるとある程度どうにでもなりますから』

話を少し戻しますけど、青年海外協力隊には自ら応募されたんですか?
『そうです』
大学で生活しているといろんな誘惑もあって興味も変わってくるかと思うんですが、その中でも決心は変わらなかったんですか?
『はい』
最初に行かれた国はザンビアとあるんですが、これは先生が選ばれたんですか?
『3カ国の候補があったんですよ、エルサルバドルとマレーシアとザンビア、エルサルバドルはスペイン語だからダメだと、マレーシアは英語で行けるけどアジアは行きたくないなと、アフリカだったらどうだろ、行きたいなと(笑)ザンビアは英語で生活できるしそれで決めました(笑)』
そんな感じなんですね。
『(笑)』
言葉のことなど一応最低限の情報は事前にあったんですよね?
『現地の写真とか、どういう国だとかはあったんですよ、一応、ザンビアって国は東京オリンピックが終わった後ザンビアに変わったんですよ、それを憶えていて』
やっぱりそこもオリンピックですか。
『そうです』
オリンピックって影響力大きいんですね。
『私たちの時代はやっぱり大きいと思いますよ』
ザンビアに行かれるにあたって日本に対して何か未練とか寂しい気持ちなどはあったんですか?
『やっぱり友達と離れる寂しさはありましたけど、日本を離れると日本を外から見るでしょ、そうすると日本にいる時は日本のことを全然考えてなかったんですけど、外から日本を見ると日本はどうなんだろうって考えるようになりましたよね、当時外国に住んでると日本の情報はあんまり無いでしょ、少ない情報を集めて日本はいい国だなって、外から日本を見るといい国って分かるんですよ。日本にいる時は全然分からないですよ、普通に生活してるだけですから。一回外に出ると、日本はいいなと思うわけです、日本の情報を得るのに当時1週間かかったんですけど』
日本はいいなっていうのは何がいいんですか?
『仲間同士が繋がったり、人と人との繋がりというか、なんといえばいいか要するに輪のようなものですよね』
輪ですか、ありきたりにも思うんですが。
『でもそれはこちらには無いから、やっぱりそれはいいところですよ』

『ザンビアで大使館の人にゴルフに行きましょうって誘われるんですよ、やったことはないけどスポーツは大体やるとうまいんですよ、青木先生は何をやっても上手ですねって大使館の人に言われるんですけど、私はスポーツの先生ですよって大使館の人にいうんですよ』
今振り返られて当時のザンビアでの生活のことなどどう思われますか?
『2年間の契約で毎回更新して行くんですけど、全部で5年間滞在して、ザンビアも変わりがないので、どこか別の国に行きたいとなって、ザンビアは銅の産地で景気がよかったので、外国人が多かったんですよ、街を車で走ってるとジャカランタっていう花のいい匂いがするんですけど、私が想像してた以上に綺麗な街並みで広くて、イギリスの植民地だったんでちゃんとしてたんですよ、郊外に行くと綺麗じゃないエリアは広がってますけど、花の匂いは未だに残ってますね』
ザンビアからドイツに渡られるんですけど、その経緯を教えていただけますか?
『それは彼女というか、女性と知り合ってですね、ザンビアで知り合った女性は最初イギリス人だったんですけど、彼女に英語を教えてもらったんですけど、国に帰っちゃったんですよ。看護婦さんだったんですけど、どういう風に知り合ったかというとザンビアの警察署で毎週末パーティーがあるんですよ、オフィシャルメッセってところで、幹部の食堂や寮が全部あるところなんですけど、そこにザンビアの人やイギリス人なんかが集まって』
そのパーティーって何やってるんですか?
『喋ってるだけだよ、1ヶ月に1回はザンビアの警察が車で看護婦さんを連れてきてパーティーやるんですよ、そこで知り合ったんです』
すごいパーティーですね、それ、言っちゃって大丈夫なんですか?
『大丈夫ですよ』
『そこで知り合った人と色んなところに旅行に行ったり、英語を教えてもらったり』
ぶっちゃけ先生モテられたのでは?
『モテたよ、でも結局その彼女とは別れて、その後に知り合った彼女が最初のかあちゃんで、ドイツのミュンヘンから来てたんだけど、その彼女と知り合って』
さっきと同じような出会いですか?
『そうそう、で青年海外協力隊の契約が終わって日本に帰って彼女と日本で結婚したんですよ』
一時期日本に一緒に住まれてたんですか?
『2ヶ月ぐらいかな、でも彼女がここに住むのは嫌だと、日本は私を相手にしないって』
何ですかそれ?
『私はね、今でいうJAICAっていうのがあって、そこにうまい具合に入れたんですよ、でも彼女がとにかく嫌だって言ったんで、ドイツミュンヘンに行こうって、ドイツに帰ろうって』
先生は日本で一緒に生活して暮らして行こうと思われていたんですか?
『全然ない、それはね、言葉の問題もあったし、彼女がいつも文句を言っているのを聞くのは嫌だったんですよ、日本での生活がうまく行かないならドイツに行こうって、私は住むのは外国の方がいいから』
奥さん思いなんですね。
『そうです』
ドイツ人の奥さんがおっしゃってた不満って話せる範囲でいいので例えばどういう出来事があったんですか?
『要するに、日本の男性は外国人の女性を相手にしないって、例えば食事会などで人が集まるでしょ、奥さんも来るんですけど、2,3分すると奥さんはみんな帰っちゃう、旦那さんを送りにきて挨拶しに来ただけで、日本人の旦那さんだけが残るんだけど女性はうちのかあちゃん一人だけが残って、旦那さんを送るだけの国って変な国だなと、ドイツだと男性女性関係なくみんな残ってるでしょ、みんなで話をするし』
1970年代の日本ですよね、ご苦労されたんですね。
『嫌な経験としては、タンザニアの大使館に呼ばれて柔道のデモンストレーションがあってやったんですよ、その後のパーティーでうちのかあちゃん日本語ができないから英語で話してくれってみなさんにお願いしたんですけど、みんな日本語で話すんですよ、大使館の方はみんな英語話せるんですよ、それにも関わらずみなさん無視して日本語で話してて、こういうところではまだまだ日本人は国際人じゃないなって、例えば私がドイツの大使館に行くでしょ、そうするとみなさん英語で話してくるんですよ、私がドイツ語をうまく話せないから、そこにいるドイツ人が全員、ひとしきり会話してその後私がその輪から居なくなると皆さんドイツ語で話出す、でも私がまた話に戻ると皆さん英語で話してくれる、やっぱり違うんですよ』
自分も経験ありますけど、外国で仕事をしていると、共通に話せる言語に皆さんスイッチして話すのがスタンダードですよね。
『私が青年海外協力隊で日本を出る時に、そこの偉い人が帰って来たら国際人になって帰って来いって、そう言われたんですよ、その時は国際人ってどういう意味だろうって分からなくてずっと考えてたんですけど、ああこれがそうなんじゃないかって、そういう経験をすると分かってきて、色々な経験をしているとなんかそういうところは日本人は駄目だなと、例えば外国人に会ったら全然喋んないし、自分達だけで話をしたり、色んな経験してくるとああこれが国際人っていうことかなってだんだん分かってくるんですよ、要するに誰が来ても恐れないんですよ、どこ行っても話はできるし、そうしたらなんというか自分の意見を出せるし、誰にでも話はできるし』
その偉い人っていうのは?
『海外で経験があるんですよ、あちこち行って』
そういったジレンマのようなことは今も昔もあるように思われますか?
『あるでしょうね』
そうでない人も居ると思いますが。
『でも少ないと思いますよ』
エリート層の歪んだ価値観にも見えるんですが。
『どうなんでしょう』


 

言葉が通じなくてもコミュニケーションできると思われますか?
『難しいですね、ただ柔道で指導するとなるとあまり言葉は要らない、見ろって技を教えてそれで終わり、だけど柔道終わった後に話しして分かったかって、それができないと難しいですね、ただ柔道を教えるだけだと10のうちのほんのわずかな部分だけだし、生活していくとなると色々なことがあるわけで』
『例えばですね、ザンビアで教えてた時は、みんな肌の色が違いますよね、生徒たちと知り合ってずっと付き合いが続いていくと、肌の色の違いなんか見えなくなるんですね、全然意識しなくなるんですよ、生徒の心と通じると話してて外見が全然なくなっちゃう、おかしいなあってびっくりしましたよ、話をしてるとね、心があれば外見が気にならなくなっちゃう、やっぱり人間は心と心のつながりですよ』
ザンビアでの最初の経験は大きかったですか?
『大きかったですね、最初の海外経験でしたから』
青年海外協力隊って国から派遣されて行くわけですよね、その後ドイツで活動されるんですけど、どのような流れだったんですか?
『私の家内のお父さんが、今度青木が3月31日にドイツに来ると、そのお父さんがドイツで一番大きな柔道のクラブの会長に電話したんですよ、うちの娘の夫がザンビアで柔道を教えててドイツに来たらすぐ柔道の仕事はどうかって探してくれて、そしたら次の日からすぐにそのクラブに来てくれと』
それはドイツに向かう前にある程度決まってた話なんですか?
『一応行く前になんとなく来たらそういう話があるからって、クラブに行って話をつけてくれって、仕事はおそらく大丈夫だろうと』
一応目処があってドイツに来られたと。
『そういうことです』
このドイツに行かれた時ってちょうど1970年代ですよね。
『1975年の3月にミュンヘンに入ったんですよ』
この時ドイツで生活して行く見通しってどれぐらいお持ちだったんですか?
『妻がドイツ人だから、このままずっとドイツで暮らすんだろうと、日本では親類を呼んでパーティーをしたんですけど、結婚はドイツでしたんですよ』
日本に帰る選択肢はありましたか?
『うちの母ちゃんが日本で暮らすのが駄目だって』
ドイツに渡られてから国運営の協会で柔道を教えられるんですけど、当時の労働環境や給料などドイツでの生活ってどういうものだったんですか?
『私は協会と柔道のクラブとどちらにも雇われてたんですよ、色々あって何年後かにドイツの協会を出るんですけど、大した給料はもらってないですよ、青年海外協力隊とは全然違いますけど、こちらは給料はないようなものですから、収入を考えてドイツに渡ったってよりは、ドイツで柔道を教えて海外で生活するってそちらの方が大きかったですね』
その後ベルリンに来られたわけですけどどのような経緯があったんですか?
『これはドイツの連盟なんですよ、私はクラブと連盟の両方の指導者だったわけですけど、クラブの会長と連盟の会長がいつも喧嘩してて、要するにウチのクラブはドイツで一番強いクラブだったんですけど、クラブの生徒が海外に遠征に行くとなるとその経費は連盟が払うわけですよ、ウチのクラブの生徒の多くが含まれてるので連盟の会長は私のクラブに援助をしているようだと、それが嫌で。でもそれは私から言わせると当然のことで、強い選手が海外遠征に行くわけですからその選手がたまたま私が教えるクラブの選手なだけで、強い選手が連盟の名前を広げてくれるのに、お金を払うのが嫌なんですよ』
お金ですか。
『連盟が一番上にあってその下にクラブがあるんですけど、私のクラブの選手がほとんどだから、連盟は私のクラブにお金を出している、他のクラブの選手はほとんどいないからお金は出さないことになるんですけど、例えば私が連盟の海外遠征で怪我した場合はクラブの指導を休まなくてはならない、だからクラブの会長は連盟に私の代理人に給料を代わりに払ってくれと言い出したんですよ、だから私がクラブの会長に言ったのは私がスキーに行って怪我した場合はクラブが私の給料を払ってくれるからいいじゃないかと、それが分からないならお前たち喧嘩してろと、私は他に行くからと、その時にベルリンの連盟が指導者を探してたんですよ、私は応募したんですけどその時すでに締め切りから1週間過ぎてたんですよ、だから連盟から終わったんだって言われたんですよ、でも青木はミュンヘンの連盟でいい指導者だからすぐに履歴書送ってくれって連絡があって、候補に3人が残ってたんですよ、一人はベルリン在住のまつもとさんって人だったんですけど連盟はベルリン在住の人は駄目だと、もう一人はコスタって東ドイツで指導をしてたギリシャ人で、ベルリンの連盟は東ドイツの指導者は駄目だと、それで私が呼ばれて選ばれたんですよ』
バイエルン州の連盟の指導者だっていうのは影響したと思いますか?
『そういうことです』


 

ベルリン連盟はあまり強く無かったんですか?
『あまり強くない、東ドイツは強かったですよ、でも別でしたから、西ドイツと東ドイツですから』
ベルリンの壁がまだあった時ですよね。
『あの頃はね、ベルリンに行くのは駄目だって言われてね、あそこは牢屋だって、行ったってしょうがないよって。牢屋だから行くなって』
実際に来られてその時はどうでした?牢屋って感じられました?
『連盟とクラブが喧嘩して、お前ら喧嘩してろって出てきたから、牢屋でもいいから、個人の自由でやりたいってそれで来たの』
その時は家族も一緒に来られたんですか?
『最初の3ヶ月はまだミュンヘンに家族は住んでて、私がこっちで部屋を探して見つけてそれでみんな来たの』
その時の道場がここ?
『その時の道場とは違う、7年間連盟で働いて、ベルリンの壁が落ちたでしょ、1989年かな、ベルリンの壁が落ちてそこで連盟の会長も変わったの、要するに東ドイツの連中が入ってきたでしょ、東はみんな強いですからね、オリンピックの時なんかもすごいんですよ』
ベルリンの壁がある頃は東ドイツと西ドイツでしたもんね。
『会長が追い出された時に私も連盟を追い出されたの、それで失業してですね、それでどうしようかなと思って、1年間はスポーツクラブで柔道とフィットネスを教えたんだけどあんまり面白くなくて、生徒たちが私に対して文句を言い出したから、私は柔道の指導者でずっとやってきてるのに口を出すのかと、口出すならお前ら勝手にやれって、それでスポーツクラブを辞めて』
ちょっと調べさせてもらったんですけど、先生が指導者をされてた柔道のクラブからチャンピオンを排出されているって、代表選手とか。
『ヨーロッパ選手権で2位になった選手だったりね』
『それでクラブに入ったんですよ、それであちこち道場を探してですね』
その時に日本に帰国される選択肢はありましたか?
『無かったですね、子供が出来てたし、3人子供がいて、これからここで生活していくんだっていうのがあってですね』
『合気道の道場を間借りして、週に三回柔道の道場をやっていたんですよ、そしたら生徒が増えちゃって、合気道の道場の人にもっと時間を欲しいって言ったんですけどこちらも一杯だから駄目だって、それでここがあったんですよ』
この道場ですね。
『1993年に借りたのかな、だからもう30年になるって、最初はこの道場の広さは半分だったの、柔道と剣道と居合道を始めて、やっぱり狭くて、もう半分のところを借りてた人がお金払わなくて、そしたら大家から連絡があって、あんた全部取るかって、それで、いややりますって、それでこの広さになったの、私が全部借りて』
お話聞いてて今まで連盟だったりクラブだったりどこかに所属しながら活動をされてたわけですが、ベルリンに来られて連盟と関わらなくなってからは一人で始められたわけじゃないですか、最初から巡って行くと、最初は海外に興味があって、柔道の指導者になるって、どこかに属しながらでも柔道の布教活動のような側面があったわけですが、その活動は全て繋がってるっていう感覚なんですか?
『私は考えたんですよ、道場をつくるにあたって何を提供したら良いのかと、私は柔道一本では多分駄目だろうと、将来性が、私が年取ったら柔道できなくなる』
その時っておいくつですか?
『40歳代だよね』
『それで私が国士舘大学の時に何をやってきたかというのを考えて、居合道を教わってたし、剣道も教わってたし、あの頃は学生剣道で初段までは取ってて』
学生の時に既にやられてたんですね。
『昔のやったことをもう一回やってみようと、柔道は本業でやってるから大丈夫だと、居合道、剣道をやろうと、この3っつはね』
『あと呼吸法っていうのも習ってたんですよ、4っつの格闘技をここでやりだしたんですけど、最初は剣道と居合道は生徒は少なかったですよ、呼吸法と柔道は多かったんですよ、いっぱい来てたんだけど、生徒さんは呼吸法はなかなか分かんなかったですよね、時間がかかって、呼吸法やってても、自分の体の中の香りみたいなものが分かってないんだよ』
自分も分からないです。
『呼吸法やるとすごく綺麗になる、体の中がね、ものすごく、要するに健康になるんだよね』
その呼吸法を当時何人ぐらいに教えられてたんですか?
『20人ぐらいですね、だからいつも道場がいっぱいだったの。柔道は子供達がたくさん来ていて』
日本の武道に拘られた何か特別な理由はあるんですか?
『国技ですから。だから国技館です(笑)道場の名前が、日本の国技は柔道、剣道、居合道ですよ、それを教える為に国技館ってのを作ったんです』
でも東京都墨田区に国技館って同じ名前のところがあるじゃないですか。その名前と一緒なのは意識されましたか?
『してない』
日本の武道に拘られた原点みたいなものがもしあったら教えていただきたいんですけど、言ってしまえば連盟から外れた時に全然違う他のことを始められることも出来たと思いますが、それでも続けられた拘りみたいなものは何かあったんですか?それとも割と成り行きに近いっていう感じなんですか?
『私ができるのは武道以外何もないですよ、そこですよ、武道一本っていうか、武道一直線っていうか』
それを人に伝えたいっていう思いが強いのか、それとも自分は武道しかないっていう思いが強いのか、どちらなんですか?
『武道を通してですね、人間、少し偉くいうと人間形成ですよ、剣道だってね、偉そうなことをいうけど。やはり私は指導をしてですね日本の武道というのをこっちの人、ヨーロッパの人に楽しんでもらう、日本の武道はこういうものなんだよと、要するにみんなに分かってもらって』
先生がもし一言で簡単に日本の武道を説明されるとしたらそれは何だと思われますか?
『いやあ私は昔のことを言ったら、これ武道精神ってあるでしょ』
スピリット。
『要するに人間の輪を作るっていう、武道を通して。輪を作るのが国技館のモットーです。昔はここに来た時に日本のお茶を出して、初心者の人がくるでしょ、両親とか。そうすると子供達はここに置いておいて、両親は帰らせなかったの。みんな座ってですね、お茶飲むんですよ。昔はずっとやってたんですよ。コロナが始まってからは全然やらなくなったんですけど。15分でもいいですよ、お茶を飲みながら話をすると子供達が全然怖がらなくなってみんな仲良くなるんですよ、すぐ15分だけでもパッとやると』
青木先生は体が大きいし威圧感があるから初めて会う人からすると構えるというか、道着着てられるし。
『親も来てるしみんな来てるから、だんだん緩むんですよ、それでみんなのくっつきあいができるんですよ、繋がりみたいなものが、だから輪なんですよね。輪が一番、だからみんなウチのクラブが一番楽しいって言ってくれますよ』
さっきスピリットの話が出たと思うんですけど、先生が一言で日本の精神を説明されるとしたらそれは何だと思われますか?
『私の指導法が、要するにウチに生徒が来るでしょ、生徒がきて悪い生徒がいないんですよね、生徒が全然悪くないんですよ、指導者が悪かったら生徒も悪くなる、だから私はどんな生徒が来ても悪い生徒が来ても、褒めるんですよ、私の指導法として。要するに生徒が10人いるでしょ、みんな真面目で一人か二人は必ず悪い生徒がいるんですよ、その生徒を追い出しちゃ駄目なんですよ、怒っちゃ駄目なんですよ、お前は全体の何パーセントかでもいいところがあるなあと、例えば今日は大きな声出したなとか、いい声出したなとか、褒めると彼らは、へって、びっくりするんですよ、たまには怒りますけど、そうすると人間変わるの』
その指導法っていうのは長年かけて熟成されてたどり着いたというような感じなんですか?
『私の経験から子供達はみんないいやつなんだよ、悪いんだけど、本音はみんないいやつなんだよ、だからそれをどっかで悪い風になってしまう、両親だとか、いつも変なことやってたり、環境だったり、うまくいかなくて私のところにそのまま来るでしょ、そうすると私のやり方が他のクラブと違うからそういう悪いやつは追い出さない、他のクラブは追い出しちゃう、自分でいなくなるときは何も言わない、来るときは受け入れる、大人でね、ものすごい悪いやつは追い出しちゃうけど、子供は指導法によって変わるじゃないですか、お前はよくやった、よくやったっていうんですよ』
他のスポーツでもそれ以外のことでも何でもいいんですけど、こちらに来て何かやろうって生活を始めた人が途中で挫折して最終的に日本に帰ってしまう人がいるんですけど、それが良いとか悪いとかそういうことではなくて、そういう人たちと青木先生との違いって、それを分けてるものってご自身から見られて何だと思われますか?
『何だろうね』
例えばですけど色々お話を伺ってて途中のところで日本に帰って生活をして何かを始めるって出来たと思うんですけど、何が先生をそこまで外国の生活であったりドイツでの生活に向かわせるのか何か拘りみたいなものがあったら教えていただきたいんですけど。そうではなくてやっぱり成り行きでこうなったって思われてるのかその辺りを。
『私はやっぱり外国に憧れて、英語を習って、要するに言葉ができればどこでも生活ができると思ってる、それで自信を持って私はここからどこに行っても日本だけではなくて、生活するのはどこででも出来ると。言葉ができれば絶対にできると思う』
でも同じ日本人で同じ日本語を話すのに話が通じないみたいなことはあるじゃないですか。
『私の長所は武道を教えること、どこでも指導できるでしょ、日本に帰りたければ交通の便がいいしいつでも帰れるじゃないですか、どこでも変わんないんですよ、日本国内だけでもいいんだけど、日本だけだと外での経験ができないじゃないですか、外国での、いま私が思うのは、場所はどこでも構わないって、言葉ができればと、あと自分の腕、お金を稼ぐ力があればどこへ行っても大丈夫、今までの経験で自信をつけてずっときてる、あと10年も生きりゃあの世行きだからこれからの老後をもっと楽しもうかなと』


 

柔道の方は若い指導者に少しずつ任せられていってるって聞いたんですけど、引退を考えておられるんですか?
『柔道の方は今うすい君という人に任せていってるんだけど、彼はまだドイツ語があまり上手く出来なくて、火曜日の子供の柔道の時はうーんって感じで全然ダメ、でもやってくれてる』
先日コロナに感染されて剣道はお休みになったわけですけど、先生一人でやられてるので先生の代わりがおられないですから教室が閉まって生徒さんに影響が出ることもあって、今後の見通しといいますか後継者探しなどその辺りをどのように考えておられますか?
『私はできる限りここで道場をやって、出来なくなった場合はこの道場は閉めちゃおうと思ってる、だってやってけないでしょ、まあ閉めなくても構わないんだけど、合気道の先生とか柔道のうすい君とかやってくれればね、合気道の連中とか柔道の連中が部屋代を払えばね、私が大家さんに言って名前を変えてって、彼らがやっていけばKokugikanの名前は残るわけ、ここのスポーツクラブはプライベイトだからKokugikanとしてやっていってくれれば』
じゃあそういうかたがいれば任せていくと。
『そうそう』
早く引退したいとかそういうのはないですか?
『そういうのはないけど、誰かがやってくれるんならね』
組織だといろんな業界でトップのポジションにしがみつく現象というのはありますよね、同時に年功序列だったりお年寄りがいろんなことを決めたり、先生から見られて自分はそれとは違うって思われますか?
『私のところはプライベイトだし別に誰もやりたいとかないですから、いたら私は任しちゃう』
自分の知り合いでドイツで道場を開きたいって思ってた子がいるんですけど、その子は実際道場はやれてなくて今は全然違うことをやってるんですけど、そういうことをやろうとする次の世代に向けて何かメッセージのようなものはありますか?武道でも何でもいいんですけど、何かをやろうとしてる人たちに向けて何かあれば。
『やっぱりスポーツクラブだったり、道場だったり、そういうことを何でもいいけど自分がやろうとしてることに熱意を持たなきゃ駄目だよね、熱意がなかったら駄目、熱意が冷めたら出来なくなるから、俺はこれをやるって決意してやんないと。普通の考えじゃ出来ないですよ』
熱意。
『熱意が一番。私も外国に行くって熱意があって、これを絶対やるって決意して、筋を通さないと駄目だよね』
『だってさあ、筋が通んないと駄目でしょ、俺はこれをやるって決めたらね、そのためには情報を集めて自分が全部やんなくちゃいけないけど』
青年海外協力隊として外国に行かれた時から今の自分を振り返られて、どう思われますか?
『中学から高校時代に友達がいて、その時の友達はみんないい大学に行ってるの、明治、早稲田、法政、つくばだとか、私は国士舘だけど』
国士舘もいい大学なんじゃないんですか?
『体育学部だから、スポーツはいいんですけど、東京6大学とは違うから一応かくは落ちるわけで、私は自分の大学で自分のやることをやって、要するにその時の友達に今会うと青木が一番若いって、全然歳を取らないなあって言うんですよ、自分で好きでやってるでしょ、好きなことを、自分でも運動して、生徒たちとワイワイやりながら過ごしてるでしょ、でも友達は管理職とか偉くなってて、だけど若々しさがないんだよ、人間が死んでるんだよ』
友達のことをそんな風に言って大丈夫ですか。
『会うとそう思う、顔色変わっちゃって年寄りみたいで、何だよお前たちはって、それでお酒を飲みながら話すると、青木はいいなあって、羨ましいなあって言うんですよ、外国に住んでて楽しんで生活してるなあって、俺なんか楽しくないよって言うんだけど』
どういう大学に行けたかどうかが大切だと思われますか?それともそのあとの人生の方が大切だと思われますか?
『生き方だよね、私は柔道の道を選んで、柔道で生きていくって選んで、自分でも選んだんだけど、その道を与えられた気がする、やっぱり私は柔道がなかったら外国に行けなかったと思うから』
柔道との出会いっていうのは?
『学生の頃に柔道の試合で落とされて辞めたっていうのがあったんですよ』
そのあとに当時の柔道の先生に才能を見い出されてたんですよね?
『そう』
その時に選手としてオリンピックでメダルを狙っていくとかそういう方向性ではなかったんですか?
『そういうのはない、私も選手として日本代表とかやりたかったけど、肩の骨を折って選手としてやっていけなくって、でも私はそこで指導者になりたいって』
かなり早い段階で指導者を志されたんですね。一般的だと選手への拘りが捨てきれず裏方を目指すになかなかなっていかないと思うんですけど、そう思われた何か出来事などはあったんですか?
『強い人でも指導が上手くない人はいるわけですよね、選手でやれなくなったからそこでいい指導者になりたいって、指導法を勉強してって思ってですね』
特別な出来事があったわけではないんですね。
『そう』
怪我してすぐ割り切られたというか。
話が全然変わるんですけど、兄弟はおられるんですか?
『6人兄弟の下から2番目で、兄さんが2人姉さんが2人、弟が1人』
このサイトの読者は若者向けのサイトとして名前はYoung Germanyなんですけど、60歳以上の読者も多くて、先生は現在70歳を超えられて今まで外国で生活されてきた中で日本の武道をいろんな国で指導されチャンピオンを輩出されたり、現在はベルリンで道場を運営され子供達や大人の生徒さん達に現役で指導を続けらてるわけなんですけど、この先まだ続いていく中で最後に成し遂げたいことなど何かありましたら最後に教えていただけたらと思っています。
『あります。私はね日本刀に興味があって、鍛冶屋をやってるんだけど、日本刀を作る、自分のですね。今土地と場所を買ったんですよ。ベルリンでは高くて買えないし、ベルリンから120km離れたところ、西の方に車で1時間ちょっと行ったところなんですけど、自分の日本刀を作るですかね』
最後まで日本の武道に関わられるんですね。
『もう何本もすでに作ってるんですけど、綺麗なやつを作りたいなと』
自分も日本刀には興味があって。
『ぜひ来てください』

海外での生活に必要なのものは言葉と熱意という考えをお持ちの青木光義さん、自分の失礼な質問にも真摯に答えてくださる姿が印象的でした。

この日はアップルパイと日本茶でおもてなしをしてくださり、お話をされた後は子供達にいつものように剣道を教えておられました。
生徒さん達からは先生の愛称で親しまれ、最後に成し遂げたいこととして日本刀作りを宣言されておられる青木先生にこれからも勝手に注目していきたいと思っています。

次回は『若者の野望と目的とは』です。

Kokugikan Berlin

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田中フミヤ

DJ,ミュージシャン 2022年現在ベルリンに在住。 https://www.fumiyatanaka.com/biography/ Facebook Instagram @fumiyatanaka.101

田中フミヤ