デュッセルドルフの文学書店
『ブリキの太鼓』などの代表作で知られるノーベル文学賞作家ギュンター・グラスは、高机に向かって立った状態で文章を書いていたそうです。そして、頭に浮かぶ言葉を音読しながら紙にしたためました。「文学の基本形は口述だった」というのがグラスの信条だったといいます。
そんな文学の原点に立ち返らせてくれる書店が、デュッセルドルフの旧市街にあります。「ミュラー&ベーム」は、詩人ハインリッヒ・ハイネの生家跡「ハイネハウス」を改造した文学書店。ウナギの寝床のような細長い店舗の奥がカフェ兼イベントスペースになっていて、ここではしばしば作品の著者を招いての朗読会など文学イベントが催されています(*参照)。
私が初めてこの書店の存在を知ったのは、今のハイネハウスに移転する前、ここから数10メートル離れたところで、オーナーのルドルフ・ミュラーさんがこぢんまりとした感じのいい書店を営んでいたとき。当時、ハンブルク在住だった作家の多和田葉子さん(現在はベルリン在住)の朗読会があると聞いて訪ねて行ったのが最初でした。
小さな店舗の中にぎゅうぎゅうにお客が入り、作家が自作の詩を朗読する声に耳を傾ける。それは、ふだんモノを言わずに横たわっている本が急にページを開き、その中に描かれた世界が生き生きと立ち上がってくるような不思議な体験でした。
その後、この書店は2006年にハイネハウスに移転。広々としたスペースに移りましたが、文学書店の魅力はそのままに継続され、デュッセルドルフ市のちょっとした観光名所にもなっています。
「ドイツの作家の主な収入源は、よほど売れる人でない限り、印税ではなく朗読会である」(『カタコトのうわごと』青土社)と多和田葉子さんも書いているとおり、朗読会は人気が高く、作品の販売促進会とも結びついており、サイン会の役割も担っています。
朗読会を定期的に開催するミュラー&ベーム書店には、名だたる作家が常に出入りしているわけですが、書棚の見出しには、彼らが訪れた時の写真が使われており、本と読者、そして作家と読者の距離がぐっと近くなる感覚がそこにはあります。
昨年、ノーベル文学賞を受賞したペーター・ハントケも、同書店の文学イベントに参加したことがあるそうです。「ハントケは、彼がふだん住んでいるフランスの自宅近くの森で、前日に採ったというキノコをおみやげに持ってきてくれたんです。ビニール袋に入れて無造作に手渡されました」。孤高の詩人のちょっぴりユーモラスな姿が垣間見れるエピソードを、ミュラーさんは楽しそうに話してくれました。
多和田さんのエッセイで読んだ話では、ミュラー&ベーム書店のオーナー夫妻は驚くほどの読書家で、どんな小さな新聞の書評にも目を通しており、多和田さんがドイツ語圏で何かの媒体に作品を書くと、必ず「見ましたよ」とあとで言われるのだそうです。
1冊の本との出会いが自分の人生を変えることもある――この書店を訪れると、自分にまだ見ぬ世界を教えてくれる本との出会いの可能性が、ぎゅっと詰まっているのを感じて心がときめきます。
*3月半ば以降、コロナ禍によるドイツ国内の社会生活制限を受けて、ミュラー&ベーム書店も数週間閉鎖していましたが、2020年5月5日現在、営業を再開しています。ただし、朗読イベントなどはすべて延期となっています。
Müller & Böhm Literaturhandlung im Heine Haus
Bolkerstraße 53
40213 Düsseldorf
Tel:+49-211-3112522
http://www.literaturmueller.de/