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シーラッハ衝撃作『TERROR テロ』完全舞台、日本上陸!

© マライ・メントライン

シーラッハ衝撃作『TERROR テロ』完全舞台、日本上陸!

テーマの鮮烈さもさることながら、「観客の投票で有罪・無罪の結末が決まる」というコンセプトにより、ドイツだけでなくヨーロッパ文化界に大きな衝撃をもたらした天才シーラッハの戯曲『TERROR テロ』
日本でも名優・橋爪功氏による朗読劇として上演されたことがありますが、このたび、完全な舞台として再上陸を果たしました。うむ、すばらしい!

満員のサッカースタジアムへの突入を図ったハイジャック機を独断で撃墜し、「7万人を助けるために164人を意図的に殺害した」罪状で起訴されるひとりの空軍少佐をめぐる、緊迫の法廷劇。
「人命の重さは無限であり、それを数値化して大小比較する観点を持ち出すことは反人間性への入口であり、文明社会の否定の端緒であり、ゆえに少佐は有罪である!」とする検察側。対して、「いや、その理屈が有効なのは理性の共有が保たれている場合だ。特に、【敵】が理性を悪用する現代的情勢の中で、そんなことを言っている場合ではない! 少佐を有罪とした場合に救われるのは、文明ではなくテロリストである!」とする被告弁護側。
検察官も弁護人も、観客の先入観・知識・通念を遥かに上回る境地で凄まじい言霊の応酬を展開します。そう、ある意味この戯曲は、ひとりの先鋭的なドイツ的教養人の脳内で展開されるギリギリの命題思考を、法廷という触媒を用いてストーリー展開したものだといえるでしょう。なぜかといえば、ドラマ構成にありがちな思想趣味的な「誘導」がどこにもない。たまに存在するそれらしき要素は、じつはシーラッハによってあとで意図的に仕掛けられた「罠」だったりするのです。

そう、ピュアな感情に流されたら、ゲームオーバーなのです。

まあ、シーラッハ世界とはそういうものです。かといって完全論理的で冷酷で即物的なわけではない、むしろその逆です。基本的には真の「透徹」しか存在しない世界というか。

撮影:引地信彦

撮影:引地信彦



今回の公演にて、音楽でいえばシーラッハの問題提起の「主旋律」となる被告弁護人を演じるのは、前回の朗読劇に引き続き橋爪功氏。そして周囲の演者がどのようなパワーを、オーラを放って彼に絡むかが重要です。それは一種の「勝負」であり、また舞台というものの醍醐味でもあります。私は初日前日のゲネプロ(総稽古)と初日公演を観て、その空気の違い、微妙ながら大きく印象をおよぼす「気」のぶつかり具合の違いというものを体感しました。
とても興味深い。
舞台は流動的で多面的な生き物なのです。
そして『テロ』の場合、最後に観客が「参審員」として参加することで、舞台はひとつの頭脳と化すのです。やはりシーラッハのコンセプトは凄いなぁ、と客席で実感できます。

欧州での『テロ』上演結果マップ。無罪のみの場所は緑、有罪無罪混在は黄、有罪のみは赤で示される。©Gustav Kiepenheuer Bühnenvertriebs-GmbH

欧州での『テロ』上演結果マップ(2018年1月時点):無罪のみの場所は緑、有罪無罪混在は黄、有罪のみは赤で示される。©Gustav Kiepenheuer Bühnenvertriebs-GmbH



ときに戯曲『テロ』は世界中で演じられており、その最終審判の傾向はおおざっぱに言って、
・欧米:「無罪」優勢
・アジア:「有罪」「無罪」互角
・日本:過去4公演(朗読劇)すべて「有罪」
という感じです。
もちろん演出の違いや演者の力量による影響もあるのでしょうけど、それを差し引いてもこの傾向には考えさせられるものがあります。
『テロ』の、というかシーラッハ翻訳者の酒寄進一氏とも話したのですが、この日本の過去公演の「すべて有罪」は、当時の日本社会が改憲・護憲論議で揺れていて、どちらかといえば演劇に足を運ぶ層が護憲派層と重なっていた影響がある…という仮説が立てられそうだね、という感じでした。すると、北朝鮮のミサイル問題が大きく浮上した世相を背景とする今回の日本公演ではどうなるのか? 非常に興味深いところです。
ちなみに今回、初日(1/16)公演での審判結果は
・「有罪」165票
・「無罪」189票
ということで、接戦の末に「無罪」となりました。日本公演での「初」無罪です。感慨深い。そして続く1/17公演では148票対139票で「有罪」、1/18公演では、なんと147票対146票、1票差で「有罪」となる劇的な展開…他国公演も含めたこれまでの判決はPARCO STAGEの公演情報ページに掲載されており、また、『TERROR』本体サイトには公演結果の見事なビジュアルマップもありますので、ぜひご覧ください!

© マライ・メントライン この赤いカードが、コッホ少佐と、ひょっとしたら現代社会の運命をも決める「投票券」なのです!

© マライ・メントライン この赤いカードが、コッホ少佐と、ひょっとしたら現代社会の運命をも決める「投票券」なのです!



個人的にはこの『テロ』という作品、文芸・演劇クラスタの人だけでなく、外交・ミリタリークラスタの人にも触れてみてほしいんですよね。なぜかといえば、彼らからみても予測というか先入観以上に面白い内容であることは確実(NATOの領域防空システムの詳細や異常事態時の手順が本筋にかなり絡んでくる。あと瑣末ながらマウザーBK-27リヴォルヴァーカノンの性能がどうのこうのと)だし、それより何より、リアルパワーゲームという観点からの妥当性という点で、大いに感覚を刺激されるように思うのです。ここからも有益な議論が出そうな気がするし。

私のように文芸として、また舞台を通じて、ここまで『テロ』という作品を味わいつくしてしまうと、深読みの限界を超え、作品スペックの底を突き抜けて解釈するようになってきた気がします。
たとえば序盤で検事が展開する「撃墜はパイロットの独断ってことになってるけど、それはウソでしょ。証拠はどこにも無いけど、空軍の集合意識みたいなものは、国防大臣の指示を無視し、スタジアム観客の避難を考慮せず、最初から【撃墜】に傾いていたと思う。それは何故?」という問いがあります。
これに対するもっとも直接的な、そして観念的な核心を突く返答は、おそらく次のようなものでしょう。「そうです。何故なら、テロリスト陣営の意図を挫くには、対症療法的な策ではなく、彼らの価値観そのものに痛撃を与えるのが最も効果的だからです。つまり、【西欧的な通念からすると絶対守ろうとするに違いない】人質たちを実務レベルでは平然と無視するのだ、ということを正面からテロリストに見せつけることに意味があるのです。たとえマスコミにどう騒がれようが!」と…しかし作中、そういう劇的な展開は発生しません。極めてドイツ社会の実情に則った処理がなされており、検事から猛攻を受ける証人のラウターバッハ空軍中佐は部分的な肯定と否定を繰り返した挙句、「そもそも空軍はスタジアムからの観客避難に責任を負っていたのですか? ちがうでしょぉぉお!」という弁護人の実務的で効果的な、しかしいささか観念的に矮小化された反撃によって救われることになります。

確かにこのあとも数回、反理性の権化であり理性悪用の達人でもあるテロと対峙するには、理性に立脚した対応策だけじゃダメだみたいな話は繰り返し出てくるのですが、主文脈の座をキープしません。「より多くの人間を救うために、より少数の人間を意図的に犠牲にするやり方はOKなのか?」という方向の議論にどうしても収斂してゆくのです。
なぜそうなるかというと、もし作中にて、先述したような「いまや手段を選ぶこと自体が敵を利する状況になってるんだけど、それってどうよ?」的な話が正面から議論の俎上に乗ると、たぶん物語の重点が「いまのご時勢、軍事組織のシビリアンコントロールはどこまで有効といえるのか?」みたいな軍事・政治哲学的な領域にシフトしてしまい、
法廷劇として収拾不可能
になるからだろうな、と思います。これは作品の出来の良し悪しではなく、フォーマットの限界みたいなものだから仕方ない。ゆえに、人間の命の価値を無限とした場合に「無限×164」と「無限×70000」は等価なのか否か? みたいな、宇宙論や禅問答みたいな観念が主軸となるのです。

もう一つ、ここには極めてドイツ的な現実論理が機能しています。

ドイツ連邦軍はアメリカ軍と違い、「先制攻撃」をする可能性がほとんどありません。それは、ドイツ連邦共和国基本法(Grundgesetz für die Bundesrepublik Deutschland)によって至上命題として守られている「人間の尊厳」を傷つけるリスク、および軍組織の「非人道的な暴走」のリスクに対して政府および軍が極めて慎重な態度を崩さない…いや、政治的な意味からも「崩せない」からです。実際、アメリカの同時多発テロ事件のあと、ドイツ軍がアメリカ軍の援軍としてイラク戦争に参加するかどうかの議論が出てきたときの大規模な騒動が忘れられません。その後の展開を見るに、結局ドイツ軍はアフガニスタンなどで部分的に戦争に参加することになったものの、あの時の議論および「基本的な慎重姿勢」は「歯止め」として正しかったといえるでしょう。

撮影:引地信彦

撮影:引地信彦



そんな感じで、シーラッハが書いたシナリオにはそれはそれで(特にドイツ社会の感覚から見て)蓋然性はあるし、逆に言えばこの議論を通じて「ドイツの知識人の思考パターン」を端的に俯瞰できる効果もあるので、知的文芸的な意味は大きいといえます。しかし他方、個人的にはやはり「理性世界を守るためにアンチ理性に対峙する武力機構は、自身をどこまで、どのように非理性化させるべきか」という無国籍的な疑念がなかなか頭から消えずにくすぶり続けるんですね。軍事機構の本質は、本音とは実際どういうものなんだ、という。
まあ、これは今後の思考テーマといえるでしょうか。

ちなみにこの疑問を「人間の守護者たるべき者が人間を置き去りにしながら勝手に戦いを深化させる」というテーマに読み替えると、『戦闘妖精・雪風』という1970年代スタートの日本SFにシンクロします。それが21世紀に入ってアニメ化され、こんどハリウッド映画化されるらしいと聞くと、シーラッハを起点とする私の問題意識は予想外のところにつながっていくんだなぁ、とまた別種の感興が湧いてきたりします。

ということで。

舞台『テロ』(演出:森新太郎)は2018年1月16日から、紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYAで上演。そして2月17日と18日には兵庫県で上演されます。自身がシーラッハ作品の大ファンでもある橋爪功氏の渾身の熱演がなんといっても見ものです。脱力パートでもオーラが出まくっているのが凄い!
公式サイトはコチラです。

それでは、今回はこれにて Tschüss!
(2018.01.18) マライ・メントライン

マライ・メントライン

翻訳(日→独、独→日)・通訳・よろず物書き業 ドイツ最北部、Uボート基地の町キール出身。実家から半日で北欧ミステリの傑作『ヴァランダー警部』シリーズの舞台、イースタに行けるのに気づいたことをきっかけにミステリ業界に入る。ドイツミステリ案内人として紹介される場合が多いが、自国の身贔屓はしない主義。好きなもの:猫&犬。コーヒー。カメラ。昭和のあれこれ。牛。

Twitter : https://twitter.com/marei_de_pon

マライ・メントライン