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『ハイドリヒを撃て!』…英雄譚は何故つくられるか?

Ⓒマライ・メントライン

『ハイドリヒを撃て!』…英雄譚は何故つくられるか?

『ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺作戦』は2016年製作のチェコ映画で、歴史に名高いナチスのチェコ副総督、ラインハルト・ハイドリヒSS大将の暗殺(エンスラポイド作戦)を描く内容です。

映画にて描かれる暗殺作戦の経緯

1942年春、ナチス占領下のチェコ。
ハイドリヒSS大将は執念深い鬼畜であり、彼の暴虐かつ仮借ない攻撃により、チェコ市民の生活およびレジスタンス活動は壊滅寸前だった。そこに英国から飛来したチェコ人特殊部隊員ふたり。彼らの使命は英国の指示によるハイドリヒ暗殺。だが待て、と地元レジスタンスたちはたじろぐ。そんなことをしたらどんな苛烈な報復が来るかわからんぞ。やるべきなのか?
…そう、確かに報復はあるだろう。だが、今だって地獄じゃないか。この状況で何もやらないままでいる姿勢が人として正しいといえるのか? かくして人間の尊厳を守る大義のため、特殊部隊員たちは禁断のラブロマンスを交えながら、暗殺現場に赴いてゆく…

 ロベルト・ゲルヴァルト/宮下嶺夫『ヒトラーの絞首人ハイドリヒ』 Ⓒ白水社…これは実際オススメの本です!

ロベルト・ゲルヴァルト/宮下嶺夫『ヒトラーの絞首人ハイドリヒ』 Ⓒ白水社…これは実際オススメの本です!


イェール大学で出版された、決定版と名高いハイドリヒ研究書『ヒトラーの絞首人ハイドリヒ』(2011年)など史書による暗殺作戦の経緯

1942年春、ナチス占領下のチェコ。
抗独レジスタンスは盛り下がっていた。なぜか?
ハイドリヒSS大将が執念深い鬼畜なだけでなく、恐るべき心理操作マスターだったからだ。チェコの教養階級の根絶を進める一方、労働者階級の生活・福祉改善を図る「アメとムチ」政策を巧みに駆使することで、現地レジスタンスを沈静化させながらナチ向けの高い工業生産力を維持していたのだ。彼は東欧社会で顕著な「インテリと労働者の心理的断絶」を上手く活用していたのである。占領を経験した劇作家、パヴェル・コホウトの言葉「チェコ人がハイドリヒの側についたことは一度もない。だが、チェコ人は喜んでハイドリヒに買われていった」は、当時の空気の本質を突いているといえるだろう。
そんなハイドリヒを殺害すれば一体どうなるか? 当然、ナチならではの残虐な報復の嵐がチェコ全土を襲うに違いない。だがしかし、それこそが
暗殺作戦の真の狙い
なのだ。ハイドリヒの「アメとムチ」政策が消え失せ、単なるムチ連打になれば、その怨念によりチェコ全土でレジスタンスが自発的に続々と立ち上がり、サボタージュなどで工業生産力も低下するはず。そうなればしめたものだ。
ただし、この本音を最初からチェコの地元レジスタンスに伝えてしまうと協力拒絶は確実なので、実行寸前まで黙っておかれていた。
そして暗殺後、案の定すさまじい報復がチェコ社会を覆う。だが見込みと違ってレジスタンスが活性化することはなく、ナチ向けの工業生産力も終戦まで高レベルを維持したままだった。作戦を主導した英国政府およびチェコ亡命政府の計算は見事に外れたのだ。ただ、ハイドリヒ暗殺自体を「象徴的行為」としてチャーチルが賞賛し、せめてもの褒美として英仏政府は「ミュンヘン会談内容(ナチに対する1938年の領土的譲歩)の破棄」を行った。チェコ人から見ればあまりに今さらすぎる、相手を馬鹿にしたような話ではあるが。
なお、暗殺後に地元レジスタンス活動が活性化しなかったのは、ナチによる摘発がすさまじすぎて残存組織が本当に全滅してしまったからだが、もともと英国政府は彼らがひそかにソ連側になびいていると睨んでいたので、全滅しても、それはそれで良しとする構えなのであった。

…以上。
どう考えても気になるのは、お堅いはずの研究書のほうが、人間考察の材料としても陰謀サスペンスとしても抜群に見ごたえある点です。しかも、子連れ狼や初期のベルセルクにも通底する、「悪を倒すにしても、それってどこまで正義なの?」といわんばかりの濃厚なノワール感。
まさに鬼畜正義。
これが何らかの形で映画に取り込まれていれば凄いんですけど、残念ながら全くありませんでした。
本作全体のつくりをみると、「チェコの勇敢な男女の戦士はこの件で、チェコ人としてベストを尽くし、ドイツ人の暴虐から人間の尊厳を守りぬいた」という、イケメン+美女による英雄イメージの構築が最優先になっている印象を受けます。『鷲は舞い降りた』登場前の「ナチもの」戦争映画に極めて近いテイストですね。ぶっちゃけ言うと、同じくハイドリヒ暗殺をテーマにした1975年のアメリカ映画『暁の七人』と、総合的な印象がさほど変わりません。
なぜそうなるのか?
これは要するに、歴史観をめぐるチェコの政治文化状況が、今なお冷戦時代そのまま的な、
歴史「神話」の維持強化を必要としている
ことの表れであるように思えます。
そして、それが意味するものはいったい何なのか?
こういった観点から見ると興味深い作品であると思います。

※映画のクライマックス、教会での銃撃戦では、ガンダム無双のザクみたくドイツ軍がバタバタと数百人ぐらい倒される(しかも、撃たれるためにわざわざ射線の前に大挙出てくる)妙にアンリアルな描写がありますが、史実的に、あの6時間の戦闘で戦死したドイツ兵は14人でした。実際はおそらく「あさま山荘事件」みたく、ほとんど「睨みあいと威嚇」で時が流れる地味な状況だったのだろうと思います。籠城戦の現実とはそういうものです。

ドイツにもかつては同様の「神話」が…ナチがらみでいえば「国防軍潔白神話」などが存在しました。
しかし戦後70余年、直接しがらみを持つ彼我の当事者もほとんどこの世を去り、いいかげん旧式の神話のままで人間の知性を引っ張り続けるのはいかがなものか? という危機感の中で各種の神話は解体してゆき、そのうちに『帰ってきたヒトラー』(2012年)が問題提起の強力なブレイクスルーとして登場したのが印象的です。

さて。
ここまでのような意見を展開すると、「いやまあ、専門家的視点から見ればツッコミどころもあるだろう。しかし映画は娯楽性を含んだものだし…」みたいな異論が来るのが相場ですけど、今回はそこで敢えて意見を曲げる予定はありません。
なぜなら、「エンタメの権化」であるはずのアメリカ映画の戦争描写に興味深い変化傾向が窺えていて、ここしばらく注目していたところだったからです。

『ゼロ・ダーク・サーティ』 ⒸHappinet(SB)(D)

『ゼロ・ダーク・サーティ』 ⒸHappinet(SB)(D)



『ゼロ・ダーク・サーティ』(2012年)はウサマ・ビン・ラディン暗殺をめぐる情報戦の苦闘を描いた作品です。今回のお題と、大物暗殺つながりといえばいえないこともない。
正直、『ハート・ロッカー』で名を馳せた硬派キャスリン・ビグロー監督といえど、なんだかんだいってアメリカ万歳的な内容になるんじゃないかな…と思いきや! 緻密な計画どおりにみごと「アメリカの仇敵」ビン・ラディンを討ち果たし、達成感を湛えつつ終幕を迎えそうなところ、主人公の心に残るのは説明不能な茫漠たる虚無感と疲労感…
あれを見たとき、この作品って…というより「映画ってスゴイ!」と思いました。事前から「アラブ人捕虜に対する拷問シーンが!」とか大きく話題になっていたけど、まあアメリカものだし、米国完全勝利の宣伝要素が入るに違いないし…とか、心ひそかにナメていた自分が恥ずかしい。
この作品で深く感じられたのは、
「正義」の両義性
の問題ですね。上記したハイドリヒ研究書の内容にも通じるものがありますけど。そして人間はその核心をバランスよく評価できるのか? いや、そもそも人間精神はその領域と直面するストレスに耐えられるのか?…しかし直面しないとウソなんだよな、など深く考えさせられます。

『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』 Ⓒウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社

『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』 Ⓒウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社



そして、アメリカ製エンタメ映画の代表格のひとつ『スター・ウォーズ』シリーズ。そのエピソード7『フォースの覚醒』(2015年)では、上官からの民間人虐殺の命令にどうしても従えず、悩んだ末に脱走する帝国軍トルーパーが主人公の一人として登場します。
彼の「その」決断が新スター・ウォーズ・サーガ三部作の幕を開いてゆく展開は、『普通の人びと:ホロコーストと第101警察予備大隊』を知っている人間として、とても感慨深いものがありました。
『フォースの覚醒』で印象深く描かれたのは、
悪の内部での葛藤
の問題と言えるでしょう。
この映画に対する批判のひとつに「新しく登場した暗黒卿(カイロ・レン)が自信不足でしょぼい」というのがありましたけど、あれは善に行ける可能性があったのに、悩んだ末に自ら悪を掴み取ってしまった人間の哀れな姿であり、同じく悩んだ末に善を掴み取った脱走トルーパー(フィン)と対をなす人物造型として見事だなと思いました。

以上、これらアメリカ映画(しかも高評価の世界的ヒット作)のムーヴメントは、かつてのような一面的「神話」の維持強化とは違う方向への歩みを示しており、しかもジャンル的にはエンタメであるがゆえに、非常に興味深く感じられます。
実際の話、「正義の両義性」と「悪の内部での葛藤」は、これからの時代、戦争…特に第二次世界大戦…について考察する際、かなり重要な要素となっていくように思います。この領域に対する想像力の多寡が思考の質を決めるというか。

もしこういった要素を端的に「ハイドリヒ暗殺」映像作品に盛り込むとしたらどうなるか? たとえば、敢えてハイドリヒと一人二役を演じる英国特殊作戦執行部(SOE)のチーフが、以下のようなセリフを放つかもしれません。
「そう、ハイドリヒは危険だ。真に危険な男だ。単に暴虐な男より遥かに危険だ。ヤツには現実の道理を操作する能力がある…ゆえに我々は、たとえ全プラハ市民が、いや全チェコ住民が報復で消え去るとしても、なんとしてでも【いま】ハイドリヒを殺らねばいかんのだ。ヤツはいずれ警備厳重なベルリンに引っ込むだろう。戦争の展開次第では、悪くすると西欧の市民がヤツの軍門に下ってしまう。そうなったら遅いのだ…つまり、何がしかのかたちで【いま】犠牲が必要なのだ…」

ああ、英国のBBCやチャンネル4が本気でハイドリヒ暗殺ドラマをつくったら、こういう情景も実際ありそうで怖い。
『パリは燃えているか』の描写とかにもさりげなく表れますけど、当時、ドイツだけでなく英仏でも、西欧と東欧で人命の重さは違うとナチュラルに思っていたわけで…。

ハイドリヒによるチェコ支配は、さながら『カラマーゾフの兄弟』「大審問官」のくだりを思わせる観念的コンセプトに立脚していました。率直に言って、
未来的な恐怖を感じさせる何か
が存在します。ゆえに、今後さらに多角的に研究・議論が深まりそうな史的事件のひとつといえるでしょう。そのポテンシャルを真に有効に活かすドラマなり小説なりがそろそろ出現して欲しいな、というのが正直なところですね。
ちなみにドキュメンタリー・研究書としては、上記『ヒトラーの絞首人ハイドリヒ』(ロベルト・ゲルヴァルト)が決定版の出来と言ってよいでしょう。重厚で高度な内容を真摯に読みやすく展開しており、凡百のSFを超えたハイドリヒの真・SF性を「確実に裏付けが取れる範囲で」きっちりと描き出しています。正直、ナチの戦争云々だけでなく、犯罪的・反社会的心理に関心を持つ人にも超オススメな一冊です。

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マライ・メントライン『ドイツ語エッセイ 笑うときにも真面目なんです』ⒸNHK出版

マライ・メントライン『ドイツ語エッセイ 笑うときにも真面目なんです』ⒸNHK出版



【お知らせ】
私の著書がNHK出版から発売されます!
『ドイツ語エッセイ 笑うときにも真面目なんです (音声DL BOOK)』
日独語の対訳で16篇が展開するエッセイ集で、現代ドイツ社会における「あるある的トピック」…節約愛、馬愛、同性婚、じゃがいも愛などについて述べております。あなたの持つ「ドイツ人イメージ」にどこまで合致するでしょう?
対訳形式なので、「この表現はドイツ語ではこう言うのか!」という、「言い回しサンプル」としても活用可能かと思います。
音声DLができますので、発音・ヒアリングの参考としてもぜひどうぞ!

それでは、今回はこれにて Tschüss!(2017.08.07)

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マライ・メントライン

シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州キール出身。NHK教育 『テレビでドイツ語』 出演。早川書房『ミステリマガジン』誌で「洋書案内」などコラム、エッセイを執筆。最初から日本語で書く、翻訳の手間がかからないお得な存在。しかし、いかにも日本語が話せなさそうな外見のため、お店では英語メニューが出されてしまうという宿命に。 まあ、それもなかなかオツなものですが。

twitterアカウントは @marei_de_pon

マライ・メントライン

翻訳(日→独、独→日)・通訳・よろず物書き業 ドイツ最北部、Uボート基地の町キール出身。実家から半日で北欧ミステリの傑作『ヴァランダー警部』シリーズの舞台、イースタに行けるのに気づいたことをきっかけにミステリ業界に入る。ドイツミステリ案内人として紹介される場合が多いが、自国の身贔屓はしない主義。好きなもの:猫&犬。コーヒー。カメラ。昭和のあれこれ。牛。

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