「言論の自由が大事?」それとも「人を傷つけないことが大事?」
17名が命を落としたフランスの新聞社襲撃事件から一ヶ月経ちました。
先日「風刺画に見る文化の衝突」というコラムの中で、辛辣な風刺画を描いたり読んだりする文化が伝統的にある国(ドイツやフランスなどの欧州圏)と、そうではない文化圏(イスラム圏や日本など)があると書きました。そういった文化の違いから、双方が分かり合うことがむずかしくなっているのですね。
そして、この風刺画の話は、「『辛辣な風刺画』という文化がない国の人々を、どこまで欧州の文化(辛辣な風刺画)に巻き込んでよいのか」という話にもなってきます。辛辣な風刺画というものといわば一緒に育ち、それらに慣れていれば、「まあそういうものか」と思うものであっても、風刺画の文化のない人達がそれらを見たら、侮辱されたと感じるわけで・・・。
さて、この話、突き詰めると、「言論の自由が大事なのか?」それとも「人を傷つけないことが大事なのか?」という話にもつながります。フランスやドイツなどの欧州圏の人々は基本的には「言論の自由が大事」と考えている人が多い印象です。
つまり「自分の意見を表明する時に、それがどんなに辛辣で下品な意見であっても、相手の気持ちにイチイチ配慮していては、何も表明できない。『相手の気持ちを考えるべき』とすること自体が言論弾圧の始まりである」という考え方です。実際こういう考え方をする人ももちろん全員ではありませんが欧州には多くいるわけです。
逆に日本を含むアジア圏においては、もともと人間関係が欧州圏よりもウエットですし、欧州のような「言論の自由のためには、相手が傷つくかもしれない事にイチイチかまってはいられない」というな考え方はあまりないように感じます。その証拠にフランスのテロ後の風刺画掲載に関しては日本の主要な新聞(朝日新聞、毎日新聞、読売新聞)は掲載を見送っています。
週刊新潮の連載「東京情報」(1月22日号。132ページ)にも書かれているように、かつて日本の新聞協会が作った倫理網領の規定には「報道、評論の自由に対し、新聞は自らの節制により次のような限界を設ける。人に関する批評は、その人の面前において直接語りうる限度にとどむべきである。」とあります。つまり日本の新聞社の場合、「他人を傷つけかねない内容のこと」を誌面に載せるか否かの判断は「それを本人の前で言えるか・書けるか・描けるか」が一つの判断基準になっているのだそう。個人的には、これは人間的な判断のしかただな、と思うと同時に、良い意味で「日本らしい」判断基準でもあるなと思いました。ただ、欧州の一部の人からしてみたら「そんな判断基準があっては、何も書けない・描けない・言えないではないか」という声も聞こえてきそうです。そして「本人の前で言えないことを書く・描く・言うことがメディァの役割ではないか!」という声もあります。
日本のテレビを見ていると、風刺画にしても「言論の自由は大事」という意見もあれば「他人の気持ちにも配慮が必要」といった意見もあり、各コメンテーターが様々な意見を発しています。どちらかというと「違う文化圏や、違う宗教の人の気持ちを傷つけないように配慮が必要」という意見がうわまっている印象を受けますが、中には「他人の気持ちに配慮するということを重要視してしまうと、同調圧力により、それこそ何も言えなくなるから危険と」と語っている人もいました。たしかに、「誰もこんな事言っていないし、国のお偉いさんに怒られそうだから、これを書くのは・描くのは・言うのはやめておこう」というふうになれば、それはある意味世間の「空気」やお偉いさんの「気持ち」に配慮しているのかもしれませんが、同調圧力ではないかと聞かれたらやはり同調圧力の場合もあるかと思います。
そう考えると、「自由を優先する」のか、「他人の気持ちに配慮することを優先する」のか、というのは非常に難しい問題ですよね。
「自由」と「他人の気持ちを傷つけないこと」が「両立」できれば一番いいんですけど、それが一番むずかしいわけですし。
個人的には、社会的立場の弱い人(たとえばその社会のマイノリティー)に関しては配慮をし、強い立場にいる人(たとえば今の政治家であるとか、資産家であるとか)に対しては多少辛辣な風刺画を描くのが社会のためなのではないか?と思いますが、みなさんはどう思われますでしょうか。