東北に旅する
駐日大使赴任にあたり決めた抱負の一つに、日本の都道府県全てをまわるというものがあります。その多くは、大使として訪れることになるでしょうが、中にはプライベート、つまり言わば「お忍び」で赴くところもあるでしょう。
この7月前半、2週間の休みをとった際に、妻と下の娘二人を連れて、車で東北をまわることにしました。東北については、かねてから大変美しい地域であると聞いていましたし、もちろん東日本大震災の甚大な被害については知っていましたので、自分たち自身の目で見に行こうということになったのです。
最初は平泉を訪れました。一軒ぽつりとたつ旅館に三泊し、ここを足場に日帰りであちこち見に行こうということになりました。車での長時間の移動後、温泉と伝統的なお料理を心ゆくまで満喫しました。習い始めたばかりでつたない私たちの日本語でも、旅館の従業員の人々による片言の英語と互いの身ぶり手ぶりを組み合わせ、コミュニケーションも大変うまくいきました。
平泉到着の次の日は古い武家屋敷の町並みで有名な角館におもむきました。到着したときは、一見ほかの街と見分けのつかないごく普通の様子で、思わず道を間違えたかと思ったほどでしたが、武家屋敷の町並みを見つけると、その素晴らしさに感じ入りました。かつて17世紀には商家が約350軒、武家屋敷が80軒たっていたそうですが、そのうち10軒以上が現在もまだ残っています。昔の日本について書かれた本を読んでいたこともあり、当時のお屋敷や通りの様子が感じられるような気がしました。
世界遺産にもなっている平泉の二つの有名なお寺を見たのは、三日目になってからでした。まず中尊寺ですが、この広大な寺院は1337年、金色堂以外は火災によりすべて消失したとされています。その金色堂は今日、ガラスケースに覆われ、その周りをさらに「覆堂」というコンクリート造の建物で守られています。これらの覆いによって若干、興がそがれるような気もしますが、前に立てばまたたく間にすっかり心を奪われます。周囲の森はドイツの黒い森(シュヴァルツヴァルト)に似た雰囲気だと思いました(ただしシュヴァルツヴァルトにはもちろん神社仏閣も和食の店もありませんが...)。
もう一つのお寺、毛通寺では、すぐれた意匠の美しい庭園と池泉だけが今も残っています。古い時代の建物がもはや一つも残っていないその佇まいに正にぴったりの松尾芭蕉の句碑が立っていました(ありがたいことに英語訳がついていました)。
夏草や
兵どもが
夢の跡
今回は、日本の伝説もひとつ学ぶことになりました。河童伝説です。全身をウロコで覆われ、足には水掻きをもち、背中には亀の甲羅を背負っているとか。さらには、頭にくぼんだ皿のようなものをのせ、中に水が入っていなければ死んでしまう、あるいは少なくともその不思議な力を失うと聞きました。また、知らないうちに人間の女性を妊娠させ、河童の子を生ませることもあるそうです。キュウリが好物で、人間の肝も好んで食べるということですが、どのように肝を手に入れるかは黙っておいたほうがよさそうです。どのみち日本人読者の方々はご存知でしょう。
さて、お世話になった平泉の旅館のご主人に別れを告げ、次の三日間の拠点となる盛岡へと向かいます。平泉の旅館では、水の流れと温泉の音以外、夜は何も聞こえない静寂そのものでしたが、盛岡では対照的に、大きな都市そのものの喧噪と活気に溢れていました。とりわけ目抜き通りはにぎやかでした。
石を割って育ったという「石割桜」も有名だそうですが、そのほかにも盛岡は古く伝統的なお店があることでよく知られています。こうしたお店は見つけるのに苦労しましたが、その甲斐は充分ありました。例に漏れず大変親切に対応してくれるとても素敵なお店ばかりで、陶磁器、布製品、お菓子、そして様々な種類のおせんべいなど色々買い求めました。買い物の合間には趣のあるお店でお茶の休憩です。
今回の旅行のうち一日は、岩手県の海岸沿いを訪れようと考えていました。まずは、ちょうど盛岡の真東に行ったところに半島のように突き出た浄土ヶ浜です。このあたり一帯は、震災の津波被害が甚大だったところの一つです。あの2011年3月、津波による破壊がいかに凄まじいものであったかを示す写真が多くの場所に掲げられていました。津波の破壊力に持ちこたえたのは、海岸に屹立する奇岩、巨岩だけだったのです。実際浄土ヶ浜の岩塊を津波が襲ったのはこれが初めてではなかったはずです。
浄土ヶ浜からは、北に向かって車を走らせましたが、多くの場所で津波の爪あとが見て取れました。海沿いは、大規模な建設工事が行われているところがある一方、我が家を失った被災者の方々が未だ暮らす仮設住宅も数多くあります。また防潮堤の増強かさ上げ工事も行われています。1階、2階はむき出しの鉄骨以外全て流されているのに対し、3階は破壊された壁や床や天井が辛うじて一部残り、4階以上は無傷という、波の力の凄まじさを物語る建物がいまだいくつか残っています。
宿泊は、参拝客の宿泊所の羽黒斎館でした。夜は伝統的な精進料理をいただきました。消灯が早かったため、翌朝は5時前に目が覚めてしまいましたが、窓から外をみると、ちょうど、雪をかぶった標高約2000メートルの月山の周囲が次第に明けそめていくところでした。そのとき、自然と一体化するというのはどういうことなのかがおぼろげながら感じられる気がしました。
その日は注連寺に行きました。注連寺では、修行僧が過酷な苦行の末、生きながらミイラと化した「即身仏」がまつられています。六年ちかくにのぼる穀物断ちの末、空気穴ひとつのみ穿たれた穴に小さな鈴ひとつだけを持って修行僧は実質生き埋めとなります。そうして瞑想状態のまま絶命します。鈴の音がしなくなると、空気穴が密閉され、そののちさらに1年を経てから掘り出し、そのとき体が腐敗していなければ、入定し即身仏となったとされたそうです。
さて、いよいよ旅も終わりに近づいてきました。帰路、著名な写真家・土門拳の作品を収めた、酒田にある「土門拳記念館」に立ち寄りました。見事な写真に感じ入り、見事な建築に圧倒されました。旅行の最後の晩は、会津若松の近くにある贅沢な旅館で、温泉とおいしいお料理をもう一度心ゆくまで堪能しました。
今回は、本当に素晴しい旅を経験できました。岩手、山形、秋田、福島の各県をまわり、日本の現代と伝統の双方を目にし、歴史、信仰、伝説に触れ、評判どおりのおもてなしの心に接することができました。私たちはみな、次の旅を今から楽しみにしています。