バイリンガルでないハーフは欠陥ハーフ?
ハーフなのに日本人顔だったり、ハーフなのにかわいくなかったりすると、「ハーフなのに、もったいない!」と言われてしまう話を前回したけれど、この「もったいない」という言葉、ハーフは容姿以外の面でも結構頻繁に聞かされたりします。たとえば語学。世間は、ハーフはバイリンガルというのが当たり前だと思っているみたい。
そう、ハーフを前に必ず出る質問。「○○ちゃんはバイリンガルだよね?」 でも例えば私の周りの日独ハーフを見ていると、日本語とドイツ語の両方ができるバイリンガルもいれば、日本語のみを話し、ドイツ語はできないハーフもいる。そしてドイツ語ができないハーフはよくお決まりの質問「ドイツとのハーフなのに、なんでドイツ語ができないの?」と聞かれてしまう。
でも言語が1つしかできないのは、ハーフである本人がそれを選んだわけではなく、そのハーフが育った環境に原因がある事が多い。両親が離婚し、日本の親に引き取られ、日本で育ち、日本の学校に通っていれば、自然な流れで日本語が母国語になり、ドイツ語はできなかったりする。本人が努力を怠ったわけでもなんでもない。それなのに周りは「えーっ?! そうなの? もったいない!」の大合唱。
ハーフがバイリンガルであるか否かは、例えば、親の事情などハーフ本人の意思とは関係のないところで決まる事が多い。だからハーフ本人に「何でできないの?」と聞いてもあまり意味がない気がする。聞かれた方は自分に決定権のない事について延々聞かれる事で複雑な気持ちになるし、そこでイチイチ自分の生い立ちを説明しなきゃいけないのも悲しくなるよね。世の中、幸せな生い立ちばかりじゃないからさ。
英語ができなくて「もったいない」、外国語ができなくて「もったいない」、これはハーフに限らず、日本人でも何人でも同じなのではないでしょうか。色んな言語が話せればもちろん便利だけれど、話せるのが、母国語の1ヶ国語だけでも全然問題ないんじゃないかな。「もったいない発言」の裏には「ハーフは環境が整っているのに外国語を習わないなんてもったいない」という考えがあるのだろうけど、環境が整っていなかったから習えないのであってね。
何だか色々書いちゃったけれど、この「もったいない」という言葉、お金や節約ネタの時にはもってこいの言葉だし、実はは結構好きな言葉だけれど、ことハーフに対してはあまり言ってほしくない、というのが本音かな。
ちなみにウチの弟は5歳ぐらいの時に日本語もドイツ語も話すバイリンガル(これぐらいの年齢の子供だと両方の言語で読み書きはできず「話す」だけなので、厳密に言うと、この年齢でバイリンガルという言葉を使うのは正しくないそうですが)だったのだけれど、小学校低学年のある時から「もう土曜日の日本人補習校に行きたくない!」と言い始め、親もあっさり土曜日の日本人学校を辞めさせてしまったので、その後、日本語をきれいに忘れてしまいました。
でも本人が16歳になってからまた日本語に興味を持ち始め、日本語レッスンを受け始めたんだ。途中で日本語を辞めてしまったことを「子供のワガママ」と片付けるのは簡単だけれど、子供は子供なりに「自分はドイツ人なの? 日本人なの?」という自分のアイデンティティーに悩んでいたりします。子供には子供なりに「言語」や「アイデンティティー」に対する葛藤があり、それが何かのはずみで「もう日本語イヤ!」または「もうドイツ語イヤ!」と拒否反応を起こすことがある。大人には、それを真剣に受け止める義務があると私は思うんだ。大人だってさ、気持ちの切り替えが上手にできない人は色んな言語に囲まれながらの生活がストレスになる事もあるのに、子供をポーンとそういう状況に投げ込んで「子供はスグに慣れるから大丈夫」と片付けちゃうのは大人の勝手なんじゃないかしら。あはは…なんか私子供の代弁者みたいですね。
弟は弟で周りに「なんで日本語が、あまりできないの?」と聞かれるわけだけれど、言いたいのは、言葉の問題は思う以上に複雑だということ。顔がガイジン風だからといって外国語ができるではないし、お父さんが外国人、イコール子供が自動的に外国語を話せる、というわけでもない。当たり前だけれど、ハーフだからといって、生まれてくる時に「おんぎゃ〜」の代わりに「はろー! Mummy〜!」なんて生まれてくるわけないんだしさ(笑)
次回は日独バイリンガルの「教育」についてです。お楽しみに!
サンドラ・ヘフェリン
ドイツ・ミュンヘン出身。日本歴12年、著書に「浪費が止まるドイツ節約生活の楽しみ」(光文社)など5冊。自らが日独ハーフである事から、「ハーフ」について詳しい。ちなみにハーフに関する連載は今回が2回目。趣味は執筆と散歩。目黒川沿いや碑文谷をよく散歩している。