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弦楽器の本場、ドイツの工房で働く 杉本育代さん

弦楽器の本場、ドイツの工房で働く 杉本育代さん

楽器に関する仕事といえば、すぐに思い浮かぶのは演奏家ではないでしょうか。特にドイツは、クラシック音楽の本場。演奏家を目指して、ドイツにやって来る人は大勢います。
では、バイオリンなどの楽器の修復家はどうでしょう? やはり本場はヨーロッパなのだそうです。考えてみれば、クラシック音楽の本場なのですから、その楽器の修復技術にも歴史があるのは当然です。
ヨーロッパで修復の仕事をしたいと、ドイツへやって来た杉本育代さん。なぜ修復家を志したのか、仕事の上で日本との違いは何か、興味津々で工房を訪ねました。

■木工とクラシック音楽への興味から楽器修復の道へ
杉本さんが働いているのは、ベルリンにあるKogge & Gateauという工房。2フロアからなる、かなり大きな工房です。広い天井と、ゆったりとしたスペースには、一列に並んだバイオリンやチェロ。まるで映画に出てくるような場所の一角に、仕事をする杉本さんの姿がありました。

杉本さんは、もともと木工の仕事とクラシック音楽に興味があったそうです。木で作られたヴァイオリンから、あれほど魅力的な音が出ることに魅了されたとか。楽器の修復と製作を仕事にしたいと、日本で東京ヴァイオリン製作学校(無量塔蔵六校長)に通って技術を習得し、そのまま都内の工房に就職しました。
仕事を続けるうちに、自分の仕事や日本の弦楽器の環境に疑問を感じるように。やがて、楽器の本場であるヨーロッパで、実際にたくさんの楽器に触れて勉強したいと思いはじめ、研修を受けるためにイギリスへ短期滞在。そこで知り合ったのが、杉本さんが現在働いている工房の人です。これをきっかけに、ドイツ行きを考えるようになったそうです。

「ドイツに行きたいと言い出したとき、日本の同僚には無謀に映ったと思うんです。現地での就職先も決まっていないのに、仕事を辞めて行くんですから。そのとき私は30代になっていましたし、ドイツ語もできなかったし。現地で滞在許可が下りるのが難しいこともわかっていました。でもドイツに行ってトライして、ダメならまた日本に戻ってその後のことを考えよう、ここで試さなければこの先も後悔することになるだろう、と」

海外で就職したり、学びたいと考えている人は多いと思います。でもそれを実行に移す人は、きっと少ないことでしょう。家族がいたり、仕事があったりと、現状を変えるのはとても難しいものです。でも、勇気を持ってドイツに出たことで、杉本さんは現在この工房で働いているのです。

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■修復方法を、皆でディスカッション
ドイツに渡り、最初の3ヵ月のうちに就職を決めたいと、いくつかの工房で研修を始めた杉本さん。現在の工房で3週間の予定だった研修が3ヵ月に延び、半年となり、就職が決まりました。ドイツ語は、仕事と並行して勉強しました。

仕事の内容は、顧客から依頼される楽器の修理・修復。木の割れをにかわで接着したり、補強のための当て木を付けたりと、楽器の状態によって修復の内容はさまざまです。それをひと通り習得するには、一流の工房で少なくとも5〜10年は経験を積む必要があるそうです。
ベルリンには、プロ・アマ大勢の演奏家が住んでいます。ときには高価な楽器が持ち込まれることもあり、日本での念願だった「たくさんの素晴らしい楽器に、実際に触れて勉強する」毎日です。

演奏家にとって大切なのは、音。それを踏まえた上で、修復家は修復跡をいかに目立たなくさせるかということを考えて修復するそうです。プロが求めている音を理解するために、コンサートにも頻繁に足を運んでいると話します。

杉本さんがドイツで実感したのは、伝統に基づく基本的な修復方法がある上で、さらにその先に多くの細かい選択肢があるということ。修復後のあるべき姿は一つでも、そこに至るまでの方法が何通りもあり、ときには修復方法について工房内でディスカッションをするそうです。
「みんなが違う修理方法を主張することもあって、最初は戸惑いました。でも、それだけ多くのアプローチがあるのだとわかり、自分の中での選択肢が増えました。修理に関するディスカッションでは、私も意見を求められますが、発言するのはなかなか難しいです」

ディスカッションで思うように発言できないという悩みは、ドイツにいる日本人の多くが抱えています。それは語学力の問題ではなく、訓練の問題なのだと思います。子どものことからディベートに慣れているドイツ人に比べ、日本にはそういう習慣がありません。
しかし日本でも修復の仕事をしていた杉本さんは、修復方法についてときどき譲れないときがあります。そんなときは、たとえドイツ人のようにうまく説明できなかったとしても、自分の考えを繰り返し話すことで、上司も納得するそうです。

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■ここで自分が働く意味
「なんで自分がこの工房で採用されたのか、今でもわからないんです」
と笑う杉本さん。
しかし、十分な研修期間を経た後に採用されたということは、その仕事ぶりが認められたということです。

杉本さんが心がけているのは、丁寧で常に安定した仕事。たとえば限られた時間の中でも、細かく時間を区切ってニスの層を重ねることで持ちをよくしたり、同じ仕事内容であっても楽器ごとにすべて状態が異なるので、それを瞬時に判断し、それぞれの楽器に合った精度の高い、きれいな仕上がりを目指しています。

「でも丁寧さを目指すあまりに、時間オーバーしてはダメです。あくまでも、就労時間の中で、どれだけいい修復をできるかが大切です」

残業は、ドイツでは決して評価されません。残業すると仕事が遅いと見なされますし、雇用主は残業代も支払うことになります。ドイツでは、時間内に最上の仕事をすることが求められます。
丁寧な仕事を時間内にきちんと終えられる杉本さんの働きぶりが評価され、就職につながったのかもしれません。

杉本さんは「このような工房で働けることに、ここに至るまでお世話になった大勢の方々に感謝しつつ、ドイツでたくさんの楽器に触れて修復の経験を積み、それを生かした製作をしていきたいです」と話します。
弦楽器の美しい音色は、杉本さんのような修復家の想いに支えられて、何十年も何百年も生き続けているのだとわかりました。

Kogge & Gateau
http://www.kogge-gateau.de/


文・写真/ベルリン在住ライター 久保田由希
2002年よりベルリン在住。ドイツ・ベルリンのライフスタイル分野に関する著書多数。主な著書に『ベルリンの大人の部屋』(辰巳出版)、『ベルリンのカフェスタイル』(河出書房新社)、『レトロミックス・ライフ』(グラフィック社)など。近著に『歩いてまわる小さなベルリン』(大和書房)。http://www.kubomaga.com/

久保田 由希

東京都出身。小学6年生のとき、父親の仕事の関係で1年間だけルール地方のボーフムに滞在。ドイツ語がまったくできないにもかかわらず現地の学校に通い、カルチャーショックを受け帰国。大学卒業後、出版社で編集の仕事をしたのち、フリーライターとなる。ただ単に住んでみたいと、2002年にベルリンへ渡り、そのまま在住。書籍や雑誌を通じて、日本にベルリン・ドイツの魅力を伝えている。『ベルリンの大人の部屋』(辰巳出版)、『歩いてまわる小さなベルリン』『心がラクになる ドイツのシンプル家事』(大和書房)、『かわいいドイツに、会いに行く』(清流出版)、『きらめくドイツ クリスマスマーケットの旅』(マイナビ出版)ほか著書多数。新刊『ドイツ人が教えてくれたストレスを溜めない生き方』(産業編集センター)。散歩、写真、ビールが大好き。

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久保田 由希